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『1976年のアントニオ猪木』を紐解く(1)(2ページ目)

『1976年のアントニオ猪木』。今日のプロレス&格闘技界の礎となるであろう"猪木の1976年"を、3年にも及ぶ過酷な取材を経て書き上げた渾身の一冊だ。その著者・柳澤健さんへのロングインタビュー第一弾。

執筆者:川頭 広卓

「馬場のはプロレス、猪木のは“変な”プロレス。
“なんでこんな変なことになっちゃったの?”って」

――まず、柳澤さんご自身のプロレスとの出会いは?

「それはもちろん、BI砲ですよね。当時は特に猪木が好きだったっていうことではなく、BI砲の華やかりし頃の日本プロレスをぼんやりと観てましたね」

――BI砲を入り口にプロレスをご覧になっていた?

「プロレスっていうものは、本当によくできていて、主役は主役、脇役は脇役と役割がはっきりしていて、主役に目がいく構造になっている。もちろん、主役に目がいくようにするのは、脇役の仕事なんだけど、当時から、猪木はちゃんと馬場を立ててたんだと思いますよね。

猪木に関して衝撃を受けたのは、なんと言ってもストロング小林戦。1974年。あの時は、“世界一猪木が強い”って思ってましたよ」

――当時、柳澤さんは何歳だったのですか?

「(著作本の年)76年で言えば、16歳です。ストロング小林戦なら、14歳でしたね」

――その後、お仕事でプロレスに携わるようになったのは?

「平成4年に、僕はNumber(※文藝春秋 発行 Sports Graphic Number)のデスクをやっていて、Number291号で『最強の美学』っていうプロレス特集をやったんですよ。

当時、Numberのデスクは4人いて、野球で言うピッチャーのローテーションみたいに、4号ごとに順番が回ってくる。プロレスとか格闘技の特集は、一番いいタイミングで組むことができない。だって、日本シリーズの時期であれば、その特集をやるに決まっているから。

でも、Numberは、この頃、月2回から隔週の発行に変わって、年間通すと少しだけ出す回数が増えた。プロレス・格闘技の特集は、2月とか8月の、他のスポーツのイベントがない時に出させていただく。プロレスとか格闘技号は野球やサッカーに比べて、部数は大して変わらないけど広告が入らないから。日陰者なんです(笑)。」

――その号が、柳澤さんにとって初めてプロレスに携わったNumberになった?

「この時も“プロレスでもやろうか”って話になったんだけど、それまでのNumberではプロレス全体をやっていた。でも、僕がこの時に、初めて(カール)ゴッチから、猪木にいって、前田(日明)、高田(延彦)、船木(誠勝)っていう、いわゆるU系をやろうというプランを出したんです。

みんなからは反対された。“プロレス全体をやった方がいいんじゃないか?”とか、“全日本プロレスはどうなった?”ってなる。編集部員はみんな文藝春秋の社員で、優等生だから、プロレスについては詳しくないくせにね。

でも、僕の興味はU系にしかなかった。馬場の全日本プロレスは、プロレスだけど、猪木のは“変な”プロレス。“なんでこんな変なことになっちゃったの?”って(笑)」
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