暴力と拒絶の日々
「ヒトを殴るのは後々気持ちのいい事じゃないですよ。兄弟と自分を守るための武器でしたね」
母がガーナ人、父が日本人のハーフであるマイケルが、最初に日本の地を踏んだのは十歳の時。一級建築士としてガーナの野口英世記念館の建築の携わった父は土地の名士であり、生活水準も高かった。しかし、マイケル一家の豊かさは周囲との軋轢の種になり、正体不明の一団による強盗事件に発展する。日本移住はその結果であり、両親は前後の行き違いで別居状態になっていた。マイケルと幼い弟二人はそのまま養護施設暮しを余儀なくされる。
日本語のおぼつかないマイケルたちは養護施設の荒んだ空気の中、当然のようにイジメの標的にされる。「なんでこんな扱いをされるんだろう? って思って。自分が違うこと、肌の色や、髪の毛が縮れてることが何で? って思い続けてて、純粋な日本人になりたいってずっと思ってました」
家族、国籍といった帰属するべき要素をいきなり奪われた小六の少年。突如襲い掛かって来た暴力と拒絶の毎日。想像するだに恐ろしい環境だが、突如、自己証明のフィールドが目の前に開ける。
「中学でバレーかサッカーかどっちかを絶対やらなきゃいけないって決まりだったんです。サッカーはガーナでちっちゃい頃にやった記憶があって、生活水準が違うんでボールとかもなくて、靴下を丸めてボールにするようなサッカーでしたけど」
すでに当時から俊足を誇り、一年からレギュラーに起用されたマイケルには嫉妬の嵐もやはり吹き付ける。
「学校を仕切ってる先輩とかがトイレに呼び出して背中から押さえ付けて“あまり調子に乗るなよ”とか脅すんですよ。でも僕も身体能力があるんで、ぶっ飛ばしちゃって。その日から回りの態度が変わるんですね」
異分子として睨まれ、疎外されながら、突出したフィジカルでその窮地を脱する。ある意味、マイケルの人生のパターンとなったこの構図は、この頃から同じだったようだ。しかし、その突出がまた新しいトラブルの萌芽ともなる。
「サッカーは楽しかったですけどワンマンチームでしたから、監督の作戦も単純で“ボールを持ったらとりあえずマイケルに蹴れ”っていうだけで、戦略も何も無いんです。中学卒業してエスパルスのユースに入ったときも、そういうのを全然知らなくて苦労しました。チームメイトも高校卒業したばっかりでイキがってたりするんですけど、ボールの受け渡しが上手く行かなかったりすると“お前ちゃんとやれよ、素人じゃないんだから”とか言われて、口喧嘩になったりするんですよね。自分でも上手くできないからすごくイラついたりして」
事実、この後16歳から22歳にかけての7年間、マイケルのプロサッカー人生には、こうした周囲とのディスコミュニケーションが、手を変え品を変えつきまとう事になる。