田口壮のメジャー入りまで
田口は1992年、ドラフト1位で関西学院大学からオリックスに入団した。この年のドラフト4位であるイチローとは同期入団ということになる。関西学院大学では、3年秋に首位打者を獲得するなど、関西学生野球界の雄で、オリックスでは攻・守・走の三拍子揃った大型内野手として期待されていた。
ところが入団2年目までは、田口はレギュラーを獲得することができなかった。またショートとして送球ができなくなる、いわゆる「イップス」病にかかってしまう。3年目以降は外野手に転向し、田口はようやくレギュラーの座を掴む。イチローらと形成していた、オリックス鉄壁の外野陣は印象深かった。
入団即レギュラーとはいかず、やや紆余曲折あった上での田口のレギュラー獲得だったが、その後はオリックスの主力選手として、リーグ優勝や1996年の日本一に貢献した。年俸も1億円を超え、このまま順風な野球人生を過ごすかと思われた2001年、田口はフリーエージェントの権利を得る。すかさず阪神が手を挙げたが、田口はそれを振り切ってメジャー入りしてしまう。
田口が入団したのは、ナ・リーグ中地区のセントルイス・カージナルスだった。トニー・ラルーサ監督のもと、チーム力を強化していたカージナルスは、田口の望む「ワールドチャンピオン」に近いチームではあった。しかし日本人としては、中部のセントルイスは東海岸や西海岸よりも暮らすという点で苦労が多い。幸いにして、恵美子夫人(元TBSアナウンサー)にアメリカ居住経験はあったものの、日本人が少なく日本食などにも事欠く生活は、メジャーリーガーというよりも一人の日本人として、大変な面が多かったようだ。
マイナー落ち、そしてメジャーへ
田口のアメリカ野球人生も、オリックス入団時と同様、またすんなりとは行かなかった。2002年のシーズンは3Aメンフィスでのスタートで、6月にメジャー昇格するも、すぐ降格してしまう。この年の8月にはさらに2Aにまで降格し、「メジャー」から遠ざかる。
選手枠の拡大するシーズン終盤に再びメジャー昇格し、9月にはメジャー初安打を放つものの、3年契約の「オールド・ルーキー」は真のメジャーリーガーとは言えない存在だった。2002年、カージナルスは地区優勝をし、ポストシーズンに進出するものの、選手枠の関係で田口はポストシーズン出場選手に名を連ねることができなかった。
翌2003年、田口はプレシーズンゲームで好成績を残すものの、残り1名枠の争いの中、「左打者が必要」というチーム方針で再び3Aスタートとなる。この年は5月昇格、6月降格、8月昇格と、メジャーとマイナーを行き来するいわゆる「エスカレーター選手」で、9月にようやくメジャー初ホームランを放ち、存在をアピールする。
3年目の2004年以降、アメリカ野球に慣れた田口は、ようやくメジャーで自分の位置を確保する。それが第4・第5の外野手としての地位であり、主力選手の欠場試合に先発したり、試合終盤の守備固めなど、いわゆる「サブ」的な存在だった。