ダイエー中内の野望と『アジア・パシフィック杯』
1995年11月、ダイエー中内功氏らの肝いりで、その『アジア・パシフィックスーパーベースボール』なる野球大会が開催された。場所は福岡ドーム、2日間の日程だ。当時は中国に国内リーグがなかったので、2005年アジア杯の日・韓・台・中ならぬ、日・韓・台・豪のプロチームによる4か国トーナメントだった。それから約10年が経った。この『アジア・パシフィック杯』に日本代表で参加したダイエー・ホークスは今やソフトバンク・ホークスとなり、台湾戦に先発したダイエーの藤井は肺ガンで亡くなり、アジア進出を狙っていたダイエーは再生機構入りし、創業者の中内功氏は財産の全てを失った。十年ひと昔とはよく言ったものだ。
私は以前とある雑誌で台湾プロ野球の連載をしていたのだが、下記に約10年前の原稿をそのまま引用してみる。台湾プロ野球、もしくは台湾の球団・統一ライオンズファンからの視点であることをご了承願いたい。注記の一部は加筆した。
【統一ライオンズ、初代アジア太平洋王者に!】
台湾プロ野球は、実はアジアのプロ野球の中で一番強い。私も書いていて嘘だと思うが、実際に嘘のような事が起こった。95年の11月24日、場所は福岡ドームでの奇跡だ。
未来のアジアシリーズ利権を狙ったダイエーが、「アジア・パシフィックスーパーベースボール」という4か国対抗戦を密かに開催していた事実を知る人は少ない。
95年11月23日・24日の2日間、日本・韓国・台湾・オーストラリアの代表チームによる、トーナメントの優勝決定戦。果たしてそこでは何が起きたのだろうか。
コモエスタ坂本、いざ福岡へ!
こんな重要な試合を見逃す手はないというもので、私コモエスタ坂本は福岡に飛んだ。アジアビジネス戦略の一環として、野球をその道具の一つにしようとしているダイエー中内の陰謀をこの目で見ておきたかったからだ。23日の昼、私は福岡空港に降り立った。すぐさま地下鉄で福岡ドームへ行き、報道のパスを取る。私のようなフリーの記者にも寛容なダイエー球団だ。
球場内では、もうオープニングセレモニーが始まっている。福岡ドーム自慢の開閉式屋根がちょっとだけ開き、またすぐに閉じる。なんだそれは。のぞき部屋じゃないってえの。
4チームがイルミネーション輝く中を行進してくる。赤のユニフォームは、韓国の韓化(ハンファ)イーグルス(*1)。わが統一ライオンズ(*2)は、おなじみの緑。全豪選抜チーム(*3)も、おそろいの青のユニフォームを作ってきた。そして最後はダイエーホークス。ホームゲームの白のユニフォームだ。赤勝て白勝て。優勝はダイエーか韓化か、というのが試合前の下馬評だ。
(*1)韓化イーグルス=親会社は韓国火薬グループ、本拠地は大田。95年は、55勝71敗で韓国8チーム中6位。
(*2)統一ライオンズ=95年、前後期優勝。台湾とのパイプが太い、ダイエー王監督のラインで招かれた。
(*3)全豪選抜チーム=95年当時、オーストラリアには8チームの国内リーグがあり、メジャーリーガーも結構参加していた。
【ダイエーホークス×統一ライオンズ戦】に続く→