パンドラの箱のような短編集
<DATA>タイトル:『静かにしなさい、でないと』出版社:集英社著者:朝倉かすみ価格:1,470円(税込) |
たとえば「内海さんの体験」。内海さんはなぜか事務員が全員Bの会社に勤めている。Bとはブスのことだ。あるとき同僚が〈あたしたちは、ここにいるしかないひとたちってことなの?〉という。“ここにいるしかないの?”ではない。〈ここにいるしかないひとたち〉と、規定されることがたまらないのだ。
Bは身のほどをわきまえろ。適度に道化であれ。ただし他人をひかせるほど卑屈になるな。情けをかけてもらえたら感謝しろ。幼いころからBだった内海さんは、そういうプレッシャーを感じながら大人になった。だが、同級生との再会をきっかけに、密やかな反乱をおこす。
「静かにしなさい」の大浜みや子のからだには、おでき玉があり、臭いは鮒っぽい。みや子は、美貌の従妹に舐瓜(メロンの中国語表記)というあだ名をつけている。〈舐瓜はわたしの理想の容れ物だ。わたしが、わたしであるかぎり不可能な夢や希望を、かのじょなら、きっと実現することができる〉。なのに、舐瓜は美しいからだを無駄遣いしてばかり。みや子は、自分の思い通りの方向へ舐瓜を導こうとする。
何かになりたがるひとたちを“ワナビー”と呼ぶ。“なれっこないのに”という揶揄的な意味を込めて使われることが多い。内海さんもみや子もワナビーだ。大雑把ないいかたをすれば、美女のワナビー。
高価な果物のようなからだに〈わたし〉を入れたい。でも、取り換えのきかない現実のからだは、Bだったり、鮒っぽい臭いがしたりする。舐瓜のようになりたいという願望を他人に見せれば、嘲笑されるだろう。かのじょたちはわきまえている。それでも、なりたいと胸がざわめく。著者はそのざわめきにじっと耳を傾け、揶揄することなく、それでいてユーモアをにじませつつ、かのじょたちの〈わたし〉をからだという檻から解き放つ。
「素晴らしいわたしたち」では、〈わたし〉という枠すらも取り払ってみせる。