■デジタルカメラという装置を通じて、現実と関わっていた主人公。その「終わり」、そして、「始まり」にあったものは?
言葉としては、徹底的に、客観的に、自己批判している「わたし」だが、前半では、実は、まったく「自己批判」などしていないのである。自己憐憫、それも、浅い自己憐憫の世界に陥っている。そう、彼は、性癖がばれたことを「不運なできごと」としてか捉えていないのだ。
「わたし」の批判的な言葉には、主体がないのである。
あるいは、語られる言葉の生真面目さとその連なりが垣間見せるとてつもない不真面目さ。そのズレの底部にあるものは、主人公の自分が置かれた状況に対するリアリティーの希薄さだ。
東京に戻った彼は、再会した友人たちと、酒と薬にまみれた時間を持つ。そこで、友人たちは、バリ島のテロや、ウガンダの現状を語る。それらに対するリアリティーの程度と、彼が自身の現実に感じているリアリティーの程度は、ほぼ同レベルのようにすら思える。
この友人たちとの会合の中で、ウガンダの状況を語る友人に対して、別の友人がこういう。
「何だろうな、この醒めた感覚は。映像でもあるともっと摑めんのかもしれないけれどな」
著者が、映像芸術にも造詣が深い人物だということもあり、うがった読み方をするなら、「映像」というのが、この作品のひとつのキーであると思える。主人公は、デジタルカメラというきわめて個人的な映像世界を可能にする装置を通じてしか、対象を見ていない。それが、たとえ、どんなに愛する存在であったとしても、デジタルカメラという装置によって獲得した映像に映った処女たちが、彼にとっては、すべてである。これが、彼が現実と関わる際の立ち位置なのである。
ところが、彼は、故郷でであった少女たちとは、デジカメという装置なしで対峙しなくてはならなくなる。もっと言えば、自身の言葉のみで、その人生に関わらなければならないかもしれない事態に追い込まれる。
現実に対する立ち位置が変わってしまうのである。
それは、彼にとって、確かに、「グランド・フィナーレ」であり、また、大いなる始まりであろう。
平たく言えば、彼は、この段階で、はじめて、「反省」し、「内省」し、「自己批判」する。そして、主体のある「言葉」を獲得するのだ。
「映像」から「言葉」へ。「装置」か「言葉」へ。「主体のない言葉」から「主体のある言葉」へ。映像が、装置が、主体のない言葉が氾濫する現在。この小説は、この時代にこそ、そして、この著者にこそ、書かれる必然性のあった作品だといえるだろう。
■阿部ファンには、お馴染みの「神町」再び!いや、三度?『続シンセミア』にも期待
ちなみに、本作で、主人公が「帰ってくる」山形の神町は、大作『シンセミア』の舞台であり、さらには、本作で、『ニッポニア・ニッポン』とも関連があったことが示される。
神町は、著者の故郷でもあり、複数の作品によって多面的・多層的に構築されるこの町を巡る物語は、この著者の創作における大きなテーマでもある。(個人的には、『続シンセミア』を一日も早く読みたいのだが、そう簡単には、いかないよね、あれだけの大作・・・)
また、『ニッポニア・ニッポン』と本作は、ディテールにおいて、様々な対比が試みられているので、『ニッポニア』をお読みになった方は、ぜひ、本作も、本作をお読みになった方は、『ニッポニア・ニッポン』も、そして、『シンセミア』もぜひお読みいただきたい。
この本を買いたい!
「J文学」の書き手として注目を集めた著者。ジャンルの枠組は解体した感がありますが、どの書き手もそれぞれの道を邁進中「J文学の情報・作家ページ」で。
◆著者はじめ、「ポスト・ダブル村上」時代の書き手の活躍が目立ちます。自分も・・・と思われる人は、こんな新人賞をチェック!◆
ダブル村上、著者など、日本文学の新たな時代を拓く書き手を輩出。名門だけに、難関ですが・・・「群像新人文学賞」
綿矢りさに続き、今回の受賞作が2作とも芥川賞にノミネート。ますます、若い世代に人気。「文藝賞」
こちらは、金原ひとみを輩出。秀逸な女性作家を輩出している賞でもあります。「すばる文学賞」
※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。