■世代や嗜好、時代、個人的経験を超えて生きものとしての人がもっている痛みを生のまま表現
孤独、焦燥、閉塞感、不安・・・その「痛さ」は、このどれにもあてはまるようで、あてはまらない。もっと、原始的で、切実なものだ。
本作では、ルイをはじめ登場人物たちが、どんな理由があって、身体に痛みを与えて改造することでしか代替できないような「痛さ」を抱えるようになったのかは一切語られない。
そう、理由などいらないのだ。生きているだけで、痛い。苦しい。やりきれない。切ない。狂おしい。
彼らは、その痛みを、耳障りのいい言葉で解消したり、社会とか誰かに還元しはしない。ただ、ひたすらに身体で引き受ける。
アマを失ったルイは、身体全体でその痛みを受け止め、そして、放出する。その描写は、息苦しいほど生々しい。
アマの失踪を知ったルイは、唇をかめしめすぎて、虫歯だった歯が折れて、それを噛み砕いて飲み込んで、こう思うのだ。
「私の血肉になれ、何もかも私になればいい。何もかも私に溶ければいい。アマだって、私に溶ければよかったのに。」
彼女のこの思いの前では、愛だとか恋だとか、そんな言葉は、とても、薄っぺらに見える。生きものとしての人が、生きものとしての人を求める切実な欲求が生み出す痛み。その痛みを、著者は、生のまま、掘り出して、物語にする。
この痛みは、限られた世代の、限られた嗜好の、限られた時代のものだろうか。
著者は、芥川賞の受賞会見で「いろいろな世代の人に伝わるようなものが書きたい」というようなことを語っていた。芥川賞の授賞式で、著者は、「いろいろな世代の人に伝わるようなものが書きたい」というようなことを語っていた。いかにもイマ風のビジュアルと似合わない気がしたのだが、本作を読むと、彼女の思いがわかる気がする。
著者本人の不登校など社会との適合に悩んだという個人的経験と、この作品が無関係でないとは思わない。だが、彼女は、その個人的経験を普遍的な「何か」に昇華しようとしているように思える。
もちろん、その試みが、完全に成功しているとは言いがたい。文章力の未熟さを感じさせる記述もあるし、彼女が好きだと言った花村萬月の影響をつよく感じさせすぎる部分もある。だが、ひとつ、言えることは、自分の生活の細部をダラダラと書き記しても一応「作品」と認知される時代に、この著者は、あえて険しい道を選んだということだ。
誤解を恐れずに言うなら、私は、その道を選んだ人だけを「作家」と呼びたい。
彼女は、少なくとも、この作品を読むかぎり、まぎれもなく「作家」なのだ。
この本を買いたい!
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