■新しいものと古きものがせめぎあい、始まったものは最初から「終わり」が内在されていた1972年。そして、今・・・
本書で扱われている「事件」は、連合赤軍浅間山荘事件のほか、横井庄一氏の帰還、日活ロマンポルノ摘発、札幌冬季オリンピック開催、田中角栄「日本列島改造論」、そして、「ぴあ」創刊・・・。
こうして列挙していて、まず最初に胸に去来するのは、「懐かしい」という思いである。
当時14歳だった著者より若干幼かった私だが、横井庄一氏の「恥ずかしながら」という名セリフや笠谷のジャンプの報道の記憶は確かだ(日活ロマンポルノについては摘発のニュースはあまり記憶になかったが、近所の映画館が日活館になり、宣伝のため、飛行機から大音声でタイトル名を連呼ながら街の上空を飛んでいた)
だが、じっくり読んでいると、「懐かしさ」以外の発見が随所にある。
特に私が胸を疲れたのは、性意識が「新しく」なる裏面で、浅間山荘事件の首謀者たちが実は「古い」性意識を有していたこと、あの事件で思想が敗北したあと、思想も体系もないまったく「新しい」メディアとして「ぴあ」が誕生したこと。そして、その受身の姿勢を批判されつつも、「ぴあ」を利用していた読者は極めて主体的で機動力があったこと。さらには、「ぴあ」が巨大化するにしたがって、その主体性は必然的に画一化の波に飲まれたこと・・・。
1972年は、新しいものと古いものとのせめぎあいがピークに達した年だったのだ。そして、古いものが「終わって」「始まった」新しいものは、生まれたときからある種の「終わり」を内在させていたのだ。
「おわりのはじまり」「はじまりのおわり」――
著者は、「終わった後」である現在について、あえて大仰に否定をしたり批判をしたりはしない。だが、最終章で蓮池薫さん(彼は著者と同世代である)の帰国を取り上げた著者はこう書く。
一九七ニ年に横井庄一さんが二十八年ぶりに日本に帰ってきた時、一九四四年の日本より一九七ニ年の日本の方が幸福であるとはっきり言えた――
1978年に拉致された蓮池さんの眼に、現在の日本は、その時期より幸福に映っているのだろうか。そして、もし、私が、あなたが、今から三十年近く、日本を離れ情報を遮断あれ、日本人であることを封印され、その後、戻ってきたら、その時は?
著者なりの捻じ曲がった(私は著者のそこが好きなのだが)手法で、重い問題を定義をしているのだ。正直、割合甘っちょろいノスタルジーに誘われて手に取ったのだが、やはり、この著者、まったく、まったくタダ者ではないぞ。
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