円楽の噺家人生を決定づけた大事件
円楽と同じく円生の弟子として落語協会分裂騒動の渦中の三遊亭円丈が当時の様子を事細かに書き綴ってあります。 |
■落語協会分裂騒動とは?
1978年5月8日の落語協会理事会で、前会長の三遊亭円生は、一定の期間が来れば(才能がなくても)誰でも真打昇進出来る昇進制度に反対。同制度の推進派を更迭し代わりに自分に理解をしめす若手の立川談志、古今亭志ん朝、弟子の三遊亭円楽と共に同制度を撤回するよう求めますが、棄却されてしまいます。
それならばと、円生は反対派と共に落語協会脱退し、新協会設立を試みます。当初は半数の落語協会員が新協会側に移る予定のようでしたが、新協会(落語三遊協会)の設立記者会見時には、円生一門、志ん朝一門、7代目橘家円蔵一門しか集まりませんでした。
すると、翌日、都内各寄席の席亭らは小規模な団体による新たな協会設立は落語界に無用な混乱(小団体の乱立)を招くとして落語三遊協会に落語協会と和解することを提案。もし、元に戻らなければ寄席を使わせないと通達。
これにより、周りの説得と現状を見つめ直すことにより、志ん朝、円蔵、月の家円鏡(現8代目橘家円蔵)は落語協会にそれぞれの一門の復帰を決めることを選択。しかし、円生だけはそれを頑として受け入れず、円生一門は落語協会を正式に脱退してしまいます。
落語三遊協会は、円生と一部の弟子、孫弟子(主に円楽・円窓の弟子)の三遊一門(つまり円生の弟子達だけ)の小所帯となってしまいます。各席亭の通告を受け入れなかった彼らは寄席に出る事ができなくなり、都内近郊での自主興行や地方公演だけで活動をすることになります。
■三遊亭円生の急逝と落語三遊協会の解散
「圓楽 芸談 しゃれ噺」円楽の噺家人生をつづった本人による初の自伝。これまでほとんど語ることの無かった「落語協会脱退騒動」についても詳しく語っています。 |
しかし、円生の生前に落語三遊協会を託されていた円楽(と円楽の弟子達)は落語協会に復帰することはせず、残った円楽一門だけで大日本すみれ会(現:円楽一門会)を立ち上げます。現在も円楽一門は落語協会に復帰していません。
この「落語協会分裂騒動」は当時、連日のようにマスメディアに報道され落語界最大のスキャンダルとして世間一般の関心事だったようです。
次ページでは落語協会脱退騒動後に団体の長となった円楽のその後を紹介します。