『THE WINDS OF GOD』今井雅之監督に直撃インタビュー
俳優として、自らが演じるために『狂気集団』の話を書くつもりが……
南:舞台のきっかけは修行時代に、自らが演じる役をつくるためと 「特攻隊と戦後の僕ら-「ザ・ウインズ・オブ・ゴッド」の軌跡-」(今井雅之:著 岩波書店刊)を拝読しました。「WINDS」が初めてという読者のために、そのあたりからお話しいただけますか?
今井雅之:自分は昭和36年生まれです。子供の頃は、面子(メンコ)は戦艦大和で、プラモデルにしてもゼロ戦や戦車で遊んでいました。学校では太平洋戦争は詳しくは教えない。今も、そうでしょ? それで『特攻隊』というのは、狂気集団で、反人間的で、ロボット的に、死をなんとも思わない人。真珠湾攻撃を起こして、負けそうになったから勝手に突っ込んでいったというイメージがあったんです。そこから狂気集団の話を書こうと思っていました。
今井雅之:ただ取材をしているうちに全然違ったんですよ。みなさんからのお話しを聞いていると「自分の同期は父や母、家族のためだ」って。それに「人間誰しも死を目の前にしたら頭が真っ白になるとか、一瞬記憶がなくなった」という声もありました。そこから、そんなに勇ましい人はいないんだと知りました。
今井雅之:普通の人間の……まあ、普通の人間と言っている時点でおかしいわけですよね。でも普通の人間なんですよ、考えると。ファッションや髪型が違うだけで、60年前といっても同じ若者で、何ら変わらないんです。そういう人たちが特攻隊にいたんだ!って思って。違うのは、その時代に戦争があったこと。
『80人×3日間』の予定だった
南:実際、舞台が実現して、それで世界に、そして今も、とライフワーク的な作品になりましたね。
今井雅之:そうなんです。その時は、こんなに長く続くと全然思っていなかったんですよ、無名でしたし……。池袋にある収容人数80人の舞台で3日間だけと思っていましたから。最初の頃は、「特攻隊を笑いものにしている」とか、「今井さん勇気ありますね」と言われたものです。
今井雅之:ましてやアメリカに持っていったり、映画化したり。はじめからこんな大きな企画だったら、やっぱり『怖い』って思います、特にあの時代はね。今は拉致問題や憲法改正なんて言ってもなんともないけど、あの時代はタブーでしたから。実際、それでタイトルを『WINDS OF GOD』に変えました。
特攻隊の方へのインタビューで
南:映画を拝見すると『特攻隊』に対するイメージが変わると思います。最初はフィクションからはじめられたのでしょうが、特攻隊の描き方はノンフィクションな部分が多いのではないかと感じました。
今井雅之:本土決戦の要員を残しておかないといけないために、『とにかく若い人を行かせろ』ってことが調べているうちに分かりました。学徒動員とかの。操縦は着陸が一番難しいんですよ。でも特攻は、離陸ができれば……帰りはない。元々、分隊長クラスは次の指導もしていかないといけないんで、残ったのは兵学校出身の優秀な方々なんです。海軍の航空隊のパイロットは頭が良くないと無理なんですよ。今の航空自衛隊のパイロットもそうですけど、優秀な人ばかり。当時パイロットだったみなさん今は社長や理事をされていますからね。
南:実際にインタビューをされて、いかがでしたか?
今井雅之:ある囲碁の会で、元・分隊長の方をご紹介いただけたのでストレートに、「今こうして、生きておられますよね。何で残っていらっしゃるんですか?」って聞いたんです。すると急に動きがとまって囲碁を、こう指先で(囲碁の石を親指・人差し指・中指でつかみながら、指の腹で)なでる仕草をして、目に涙がぶわーって……必死に泣くのをこらえているんですよ。それを見た時に、あーだこーだ時間をかけられるより、あの横顔で『この人たちの戦争は終わっていないんだな。一生、背負っていくんだな。これからも背負って生きよるんだな』って感じました。
今井雅之:だから、わかる。『そんなことを根掘り葉掘り聞くな!』って感じですよね。『戦後のお前らに話したところで、何かが時代が変わるわけでもなし、苦しみというのは、またしゃべるものでもなし』ということでしょう。3時間ぐらい居ましたけど一言も話さなかったです。映画では、『あの目をどうにか』って考えて、最後に山田分隊長(渡辺裕之)がベンチに座って、「俺って天国逝けないよな」って空を見上げるあそこに込めました。
南:特攻メンバーを書いた紙に飛行隊長が朱を入れるシーンは、やはりインタビューから取り入れたのでしょうか?
今井雅之:そうです。映画ですとカット割りができるからあのシーンを取り入れました。特攻メンバーを選ぶのは分隊長なんです。それで分隊長は自分の名前をトップに書くんですよ。でも上官にはずされてしまうんですよね、本土決戦に備えて。あの太田飛行隊長(千葉真一)が朱書きするシーンは舞台にはないんです。舞台では、その分漫才のシーンが20分ぐらいあるんです。まっ、そこを削ればいい話しなんですけど、なんかアレが『いい!』って方がいらっしゃるものですから(笑)。
今、明かす……13年目の挫折
南:継続するためのご苦労もあったのでは?
今井雅之:2001年のロンドン公演はいろいろあった。ジャパン・フェスティバルに出させてもらったけど、教育委員会から、「子どもに見せられない」。外務省から、「波風たてるな」って感じで、応援もしてくれない、パンフにも載せてもらえなかった。『俺って、そんなに悪い事しているの?』って思ったほど。
南:そのようなことがあったんですか……。
今井雅之:やけのやんぱちになって、あるとき、「お金いらないから、社名をださせてくれ!」って大手企業の方に頼んだんです。すると僕の前ではっきり言うんだ、「無理だ」って。でも、「舞台どうでした?」って聞くと、「スタンディングオベーションをした」って言ってくれた。それなのに、「今井さん、分かるけど、今の日本で神風特攻隊に企業名を載せることは不可能だ」って……『不可能』だよ。
今井雅之:実は2001年9月9日の『沖縄公演を最後に降りる!』って決めたことがありました。ファンの人には内緒にしていたけど、それは13年やっていてスポンサーがつかなかったからなんです。お客さんは来てくれているんですよ。有難いことに、『70回観た』、『100回観た』って言ってくださる方もいらっしゃるのに……。沖縄公演の最後に、「突然ですけど辞めます、すみません。負けました」って、挨拶をしました。
南:エッ、終演宣言をしてしまったんですか。
終演宣言をした今井さんを奮起させる出来事が起き……に続く。