“サーキットの狼”が造り上げたスーパーカー好き
こどもの日に筑波サーキットで開催された「オールド・ナウ・カーフェスティバル」。名車のレースやデモランからショーやイベント、環境活動まで多彩な催しが行われた |
私が小学4年から6年のはじめにかけてのころ。それは子供達の間に熱病のごとく蔓延した。男子だけではない。女子までが、何やら得たいの知れない外国の名前を話題にした。それは変身する正義の味方よりも、アニメの戦隊ヒーローたちよりも、金髪のそばかすヒロインよりも、子供達の関心事だったのだ。
スーパーカーブーム。'75年に始まった少年ジャンプの連載“サーキットの狼”に端を発する、一大ムーブメントである。
もちろん、私もその渦中にあった。否、そんな生易しいものではない。魂も心も身体も、すべてが奪われたかのようにどっぷりとブームに浸かっていた。コミックスを心待ちにしただけに留まらず、スーパーカーカードを買い集め、消しゴムをボクシーで弾き飛ばし、スコールをせっせと飲んではパネルをもらおうと頑張った。めったにこないスーパーカーショーに連れて行けとせがみ、親に千円も支払わせてカウンタックの助手席に座らせてもらった。奈良の幹線道路である国道24号線にかかる歩道橋で、飽きもせずクルマを眺め続けた。来るはずのないスーパーカーを見つめて。
そんな子供がそのままオトナになってしまったのだがら、大人げなくスーパーカー好きであり続け、あまつさえ時の二大ヒーローを手に入れるに至ったとしても、許されるのではないか。仕事さえもどっぷりとスーパーカーに浸ったままだ。
今の私を造り上げたのは、だから池沢早人師(当時はさとし)先生だと言っても過言ではない。あの漫画がなければ、クルマ好きではあっただろうけれど、もう少しフツーのクルマ好きに収まっていたはずだ。
もちろん、ブームの洗礼を受けたコドモが全て、スーパーカー好きのままオトナになったわけじゃない。私の周りでも、多くは中学進級を備え、身体がオトナに近づくにつれ、カウンタックがどうしたとは言わなくなった。ボクは、言っていた。クイーンを聞くようになっても、ベルリネッタボクサーが好きだった。
サーキットの狼GPの様子は次ページ以降で