大阪城築城で誕生した歴史古い砂場そば
新町南公園にある「ここに砂場ありき」。初めて見る人には全く意味がわかりませんが、この石碑には知られざるドラマが…… |
磨耗があまり見られず比較的新しい石碑のようだが、辺りを見回しても砂場らしきものなどどこにもない。そもそも砂場があったからといって、それが一体、何だというのか? 首をかしげながら立ち去ろうとしたが、あまりにも気になったので何かほかに書かれていないか? と石碑の後ろに回ってみた。するとそこには「本邦麺類発祥の地 大阪築城史跡・新町砂場」とある。
「砂場」というのは江戸三大そばの1つの「砂場」のことで、この大阪・新町がその発祥地なのだという。詳しく石碑を読むと、まず1583年(天正11年)9月に太閤・豊臣秀吉が大阪城築城を開始。その際に日本全国各地から集められた良質の砂をここに置いたので、この辺りが砂場と名づけられたらしい。
大阪城築城は、当時の日本では東京五輪や大阪万博に匹敵するぐらいの超大型の公共事業で、土木工事関係者がそれこそ砂糖に群がる蟻のようにたくさん集まってきた。人が集まればそこで商いをする人間も出てくる。特に土木工事のおやっさんが好きなグルメといえば「早い!」「安い!」「うまい!」が三拍子そろった麺類。
そこで登場したのが我が国初のうどんとそば屋の「いずみ屋」や「津の国屋」だった。この「大坂新町・砂場のそば」というのが流れ流れて江戸に渡ったことが、江戸三大そば「砂場」の起源につながるのだとか。なるほど。それで「ここに砂場ありき」なのか……と至極、納得させられた。
ちなみに大坂・新町というのは、江戸時代には江戸の吉原、京都の島原と並ぶ「日本三大遊郭」の1つとして有名で、これも大阪城築城と関係している。日本全国各地から土木工事に従事する若者が集められ、彼らは築城の仕事でお金は手に入るが遊ぶところがない。若い男の迸るパトスを発散する場所がどうしても必要になってくるので、それで作られたのが「日本最大の花街・新町」だった。
昼は仕事で城を作って、夜は「傾城」(遊女のこと)と一緒に遊ぶ。いまの大阪・新町はただの無味乾燥なオフィス街だが、400年前のそういう光景を想像するとなかなか面白い。
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