スティーブ・ジョブズの片腕はウチナーンチュ
インターネットによる音楽配信サービスといえばアップルのiTunes。音楽や放送を、どこでも好きな時に好きな場所で聞けるというイノベーションを全世界に起こしました。このiTunesの開発に沖縄出身者が関わっていたのをご存じですか。関わっていたのはジェームス比嘉という人物。ジェームス比嘉のお父さんは琉球大学教授でお母さんもウチナーンチュ(沖縄人)でした。日本へ復帰する前の琉球政府時代、留学制度を活用してそれぞれ米国に留学し、出会います。この二人の間に生まれたのがジェームス比嘉。
ジェームス比嘉は沖縄のクバサキ・ハイスクールを卒業し、スタンフォード大学に進学します。クバサキ・ハイスクールとは北谷町・海兵隊基地「キャンプ・フォスター」内にある高校で、キャンプ内には高校以外にも住宅、病院、映画館、ボーリング場などがあり、小さな街になっています。
スティーブ・ジョブズと知り合い漢字トークを開発
スタンフォード大学を卒業し、カメラマンになります。アップルが日本向けにマッキントッシュを売り出す時、撮影依頼がありました。企画書を見たジェームス比嘉は、これは日本人向けになっていないと企画書の訂正を進言します。これがきっかけでスティーブ・ジョブズと知り合いになります。スティーブ・ジョブズは「君にまかせるから、そのかわりウチの会社に来い」と言われ、アップル社員になります。
スティーブ・ジョブズはマッキントッシュの日本語化に反対していました。日本のマッキントッシュは英語仕様のままで販売開始。これでは日本のユーザーには広まりません。
日本語が扱えないのは不便なので、エルゴソフトが日本語ワープロソフトEgWordを出し、エーアンドエーが日本語環境を提供するソフト(SweetJAM)を出すことで、ようやくユーザーはマッキントッシュで日本語が使えました。
この状況を見て、さすがにまずいと思ったジョブズはアップル社で日本語が唯一話せるジェームス比嘉に「マッキントッシュを漢字化するプランを作れ」と命じます。こうしてジェームス比嘉とプログラマーのケン・クルグラーが作りあげたのが漢字トーク。1986年発売のMacintosh Plusに搭載されました。今のMac OS日本語版の元祖になります。
ジェームス比嘉 iPod、iTunesを開発
やがてスティーブ・ジョブズがアップルを追われネクスト社を起業します。ジョブズに誘われたジェームス比嘉もアップルを辞め、ネクストジャパンの社長になります。時が流れ、業績が悪化したアップルはジョブズに救いを求めます。アップルがネクスト社を買収し、ジョブズがアップルに返り咲くと、ジェームス比嘉もアップルに戻り、ジョブズの右腕として活躍します。
ジョブズからまかされたのが携帯音楽プレーヤーとインターネットによる音楽配信サービスのプロジェクト。立案から半年、約20人のスタッフと商品化を行い、レコード会社との困難な交渉をこなし、これがiPod、iTunesになります。
ジェームス比嘉は沖縄の島唄のように、世界のいたる所によい音楽があり、これをiTunesで広めたいと考えていました。iTunesストアに日本で初めて登録されたグループは「りんけんバンド」。「りんけんバンド」とは、沖縄出身の音楽ユニットで、三線や島太鼓など沖縄に伝わる楽器と現代の楽器を組み合わせた「沖縄ポップ」を演奏しています。
スティーブ・ジョブズが亡くなった後、ジェームス比嘉もアップルを退社。現在は新興企業へのアドバイスを続けながら、サンフランシスコで拡大し続ける所得格差を解消するため、多くの時間をベイエリアの慈善活動に割いています。
次は「ビル・ゲイツの世界一豪華な家 ザナドゥ」です。