世界遺産/インドの世界遺産

デリーのフマユーン廟/インド(3ページ目)

タージマハルは王が亡き妻に贈った愛の墓廟。これに対して、王妃が亡き夫のために築いた墓廟がフマユーン廟だ。そしてまた、フマユーン廟はペルシア美術とインド美術を融合させて生まれたムガル美術のさきがけであり、約100年後に建築されたタージマハルのモデルとなった。今回は王妃ハージ・ベグムがムガル皇帝フマユーンに贈った「エデンの園」、インドの世界遺産「デリーのフマユーン廟」を紹介する。

長谷川 大

執筆者:長谷川 大

世界遺産ガイド

シンメトリーを駆使した紅白の廟建築

水面に映えるフマユーン廟

左右対称のフマユーン廟だが、水面に映り込むと天地対称にもなる。空から眺めると点対称で、シンメトリーが随所に意識されている

庭園の木々が自然という自由で無秩序な存在を表現しているのに対して、知恵と秩序を表しているのが庭園中央に置かれた墓廟だ。

シンメトリーと緑の対照

シンメトリーと緑の対照も美しい ©牧哲雄

高さ約7mの基壇は一辺約100mの正方形で、各辺を東西南北に向けている。その上に建つ廟本体は一辺約48mで、地上から見上げると左右対称、上空から見ると左右・天地・点対称になっており、このシンメトリーが抜群の美観と安定感を生み出している。

廟の中心にはフマユーンの石棺を収める中央墓室が設置され、その北東・北西・南東・南西に4つの墓室、東西南北にはイーワーンと呼ばれるイスラム建築特有の門&ホールが備えられている。

庭園の緑に対し、廟は赤砂岩と白大理石のコントラストが色鮮やかで、中央の巨大なドームがすべてを束ね、場を統一している。

 

フマユーン廟はこうして秩序と無秩序、自然と人工を見事に調和させている。これも生命と知恵という「エデンの園」のテーマを引き継いでいるのだろう。

フマユーン廟の影響とムガル帝国の終焉

対角線上に眺めるフマユーン廟

対角線上に眺めるフマユーン廟。こうして見ると幾何学的な美観がひときわ引き立つ。タージマハルの純白も美しいが、フマユーン廟の紅白模様もそれに劣らない

タージマハル

インドの世界遺産「タージマハル」。赤砂岩は用いず、白大理石のみで造られている

11世紀に栄えたゴール朝と、それに続くデリー・スルタン朝の5王朝、そしてムガル帝国はいずれもアフガン系、あるいはトルコ系のイスラム国家で、中央アジアを故郷としている。そしてムガル帝国が16~17世紀の最盛期に中央アジアからインド半島のほとんどを占める超大国となったことで、イスラム教とムガル美術はインド全土に広がった。

なかでもムガル建築の最高傑作といわれるのが世界遺産「タージマハル」だ。チャハールバーグ、白大理石、シンメトリー、アラベスクといった特徴がさらに高いレベルで表現されている。

他にもその影響はインドの世界遺産「アグラ城塞」「ファテープル・シークリー」「レッド・フォートの建造物群」、パキスタンの世界遺産「ラホールの城塞とシャーリマール庭園」「タッターの文化財」など、多くのムガル建築に見ることができる。

 

中央墓室のセノタフ

中央墓室のセノタフ。ムガル帝国最後の皇帝バハドゥル・シャー2世はここで捕まったといわれる

フマユーン廟はこうしてムガル美術のさきがけとなったが、ムガル帝国終焉の舞台にもなってしまった。

19世紀前半にはムガル帝国はすっかり衰退し、その領土のほとんどを失っていた。1857年、イギリス東インド会社のインド人傭兵=セポイ(シパーヒー)が蜂起してイギリスと対立(セポイの反乱)。インド民衆がこれに呼応してムガル皇帝バハドゥル・シャー2世を担ぎ上げ、ムガル帝国による再支配を企てる。

しかしイギリス軍はこれを武力で鎮圧し、フマユーン廟に隠れていた皇帝を発見して捕縛する。翌1858年に皇帝位は廃位され、ムガル帝国は滅亡。代わりに英国国王を掲げるイギリス領インド帝国が誕生する。これよりインドはイギリスによる植民地時代を迎える。

 
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