日暮里駅南口から谷中に紛れ込む
以前、板橋の東京大仏をご紹介しましたが、読者の方から谷中の大仏もぜひ紹介してください、 というメールをいただきました。そこで、少し空を高く感じるようになったある日、谷中へとでかけて参りました。
谷中への道順にはいろいろありますが、JR山手線の日暮里駅南口が近い。
緑のとんがり屋根が、小さな旅ごころをくすぐります。
跨線橋に続く石段をとんとんとんと上がると、見えてくる塀。それがもう天王寺。
そこは谷中霊園への入り口でもあります。実は、霊園のほとんどの土地は、かつてこの天王寺の敷地でした。明治維新のとき、政府に召し上げられ、一時は3万5千坪あまりを誇った大部分が公共墓地となったのです。
丈六仏 大仏様は江戸時代生まれ
大仏様は、新しい門をくぐるとすぐ左手にいらっしゃいました。
ことさらに威容を示すような感じはありません。ありのままにそこにいらっしゃるとでも言いましょうか。自然と手を合わせてしまうような、温かな表情の仏様です。
「丈六仏」呼ばれるそうですが、これはお釈迦様の身長が1丈6尺(およそ4メートル85センチ)であることから、その高さに作った仏像を言います。本来、坐像であれば8尺になりますが、この大仏は1丈6尺サイズそのままなのです。
今から300年以上前の江戸時代、元禄3年(1690)生まれ。天王寺の前身、感応寺の住職・日遼が鋳造したものです。
清々しささえ感じさせる境内。右手の芝生の中に立つ木は、婆羅双樹。天王寺はまた、江戸の頃には今で言う宝くじにあたる「富くじ」でも有名でした。 |
不受不施派とは、信者以外からの施しは受けず、また他宗の者には施しをしない・・・これはゆるぎない信心としてはともく、権力者にはなかなか手強い相手です。つまり、相手がどんなに偉い人であっても、日蓮宗を信じていなければ、一線を画しますよ、というわけなんです。
とりわけ、この天王寺のお隣は、幕府と結びつきの深い上野寛永寺。上野寛永寺といえば、関東天台宗総本山ですよね。改宗させるメリットは大きかったはずです。
日蓮宗時代に作られたもので、もう一つ見逃せないのが五重塔です。
今の若い方はあまり読まないのかもしれませんが、幸田文さんのお父さん、幸田露伴が書いた小説『五重塔』のモデルにもなりました。