離婚/離婚を決意する前に

DVのこれから

夫婦。その対等な関係に「暴力」の入り込む余地はない。DVの今後を、どう見ていくか?「自分には関係ない」という第三者の無関心が、被害者への差別や加害者の増長を招くのではないだろうか。

岡野 あつこ

執筆者:岡野 あつこ

離婚ガイド

その理不尽な「暴力」にさらされる可能性は、誰にでもあるということ
心のどこかで、DV加害者を差別していないか
 
小中学校などで「いじめ」が問題になると、必ずと言っていいほど、「いじめる側にも問題があるが、いじめられる側にも問題があることが多い」というような言葉が聞かれる。

もちろん、自分自身が過去にいじめられた経験を持っており、その当時を振り返って「自分にも原因があった、だからいじめられた」と認識して言うのなら理解できるのだが、たいていは、そういった経験もない人がイメージだけで、「いじめられる方にも原因がある」と言っているのではないだろうか。
 
いじめられた経験のない人が「いじめられる側にも原因がある」と言うことは、ようするに「いじめられっ子にはそれ相応の原因がある(自分にはそんな原因はなかった)」と見なすことであり、過去の自分自身を安全地帯に置くことにつながる。ドメスティックバイオレンスへの認識にも、それと似たことが起こるのではないだろうか。
 
「夫に殴られるような妻には、殴られるに足る原因があるに違いない」と考えること。
 
それはとりもなおさず「私は、夫に殴られるような妻ではない」という自負につながる。誰かを貶めることで、自己の価値を高めるという行為。それ自体は、小さなことかもしれない。しかし、そういった認識が広がってゆけばゆくほど、「さしたる原因もなく理不尽な暴力にさらされている女性たち」が、一層不利な立場に追いやられていくという現実を忘れてはならないのだ。

「暴力をふるわれる」という辛く耐え難い現実の中で、第三者にまで「暴力をふるわれても当然な人」と差別されることが、どれだけ人として切ないことか。それを、例え現在は無関係であったとしても、理解しなければならないのではないか。

「理不尽な暴力」と無縁であるための、法則はあるか
 
人は、よほどの事情がない限り、双方の同意のもとに結婚するはずだ。親の薦める見合いで強制的に、というようなカップルも存在するかもしれないが、ほとんどの夫婦は、それぞれに、「良かれ」と思って行動しても、必ずしも良い結果が出るとは限らない。

例えばドメスティックバイオレンスにさらされている妻たちの全てが夫を、「優しい人」「頼りになる立派な人」と感じ、相手を信じて結婚したといっても、言い過ぎではないのだ。結婚生活をはじめる前に夫の暴力的兆候を感じていたなら、さすがに躊躇したはずだし、結婚を選択しなかったかもしれないからだ。
 
それでもDVというと、やはり「自分には関係ない」と感じてしまう人が多いのではないだろうか。身近に被害者がいない場合など、特に「私なら、そんな夫を選んだりしない」と簡単に考えてしまい、挙げ句は「暴力亭主と結婚するなんて、見る目がない」などと、被害者を切って棄てるようなことを平気で言ってしまったりなど・・・
 
しかし実際には、人はそう簡単に他人の真の人間性を推し量ることはできない。結婚前は優しく、頼りになる男性だと思っていたのに・・・、と。それは本当に妻の側の「見る目」だけの問題なのだろうか。

そうではないはずだ。
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