家族のためだけに頑張った20代
大学を卒業して就職したとたん、父親が急病で亡くなったアオイさん(54歳)。そのとき弟は大学受験を控えて一生懸命、勉強している最中だった。その下にもう1人弟がいた。父はまだ50歳で母はパート主婦だったが、父が急逝したショックでしばらくはパートにも出かけられず、家事すらほとんどできない状態だった。「私も新入社員で余裕がない。朝から晩まで頑張って、帰宅すると洗濯したり翌日の食事の下ごしらえをしたり。その年の夏休みはひたすら眠っていたのを覚えています」
母を励ましながら、なんとか家庭を維持しようとしていた当時の自分を、けなげ過ぎて泣けてくるとアオイさんは振り返る。20代は結局、家族のためだけに頑張った。
結婚はできなかった
「私が30代に入ったころ、今度は母が更年期障害で大変でした。弟2人が独立して家を離れたのもそのころで、たぶんがっくりきたんでしょう。私への依存度がどんどん高くなりました。週末、どこかへ出かけようとすると『具合が悪い』と言い出す。1人になりたくなかったんだと思うけど、いいかげんにしてよと冷たくあしらったこともありました。そうするとハンストなのか、まったく食べずにベッドから起きてこない。母の妹である叔母が心配して来てくれたりしたんですが、この叔母が大病を患って1年闘病したあげく、亡くなってしまった。それでまた母のメンタルがやられて……」ひたすら母親に尽くした30代、それは40代に入ってからも続いた。生きる気力を取り戻したように見えたかと思うと、「あなたは冷たい」とさめざめ泣く日もあり、母は非常に不安定だった。
「私だって30代に恋愛の1つや2つはしたんですよ。でも母を抱えて結婚はできなかった。子どもをもちたかったけど、それもできない。40代半ばくらいだったか、母が『あなたが独身でいてくれてよかった』と笑みを浮かべたとき、人の人生を狂わせておいて何を言ってるのよ、自分さえよければいいんだねと激しく責めたことがあって……」
母は黙って泣いていた。老いが母をさらに暗くしていった。
結婚が具体的になったけれど
アオイさんが48歳のとき、母は脳卒中で倒れ、意識が戻らないまま1カ月後に亡くなった。最後まで分かり合えなかったし、母を責めてばかりいたような気がして、アオイさんは後悔が募った。「それでも、ようやく家族から解放されたという思いもありました。弟2人はそれぞれ家庭をもっていたし、あとは私1人で仕事をしながらのんびり生きていくつもりだった」
だが日がたつにつれて寂しさが体中にまとわりついた。このまま一生、1人で暮らすのか。定年退職後、誰にも知られずにひっそりこの家に埋もれていくのか。不安と恐怖感に襲われた。
「結婚しよう。そう思いました。人生でし残したことは結婚だと思いつめてしまって。自力で探せるとは思えなかったので、結婚相談所に登録しましたが、なんだかピンとこない。職場の世間話でシニア向けのマッチングアプリもあると知って始めてみたんです」
何人かと知り合い、デートした。デート自体が久しぶり過ぎて、右手と右足が一緒に出てしまうくらい緊張したが、だんだんと慣れていった。そのうち、「この人なら」と思える人と知り合った。
「同世代の優しい人で、私が家族のために尽くしてきた年月を『大変だったでしょう。でもあなたは天使みたいだ』と言ってくれた。これからはあなたが楽しめるよう、僕が尽くしてあげたいと言われてうれしかった」
彼はバツイチだったが子どもはいない。それもまた気が楽だった。半年ほどつきあい、彼からプロポーズされた。人生初のプロポーズだった。
50代の結婚は甘いものではない
「勢い込んで『ありがとう。お受けします』と答えたら、『僕の家で一緒に暮らそう』って。いやいや、確かお母さんがいたよね、ヘルパーさんが毎日来てるって聞いた気がする……と思い出した。お母さんが……と言いかけたら、『大丈夫、おふくろは認知症がそんなにひどくないし、自分で歩けるし』って。そういう話じゃないと現実に引き戻されました」彼がアオイさんを介護要員として見ていたかどうかは分からない。だが、彼の家で暮らしたら、当然、彼の母に対して知らん顔できるはずもない。
「それどころか、彼自身も糖尿病がひどくなりつつあるという話まで出てきた。あわててプロポーズを断りました。そうしたら『あなたがそんな冷たい人だったなんて』と言われたんですよ。その言葉は、母から受けた“呪いの言葉”です。気持ちが沈んでどうしようもなかった。だけど高校時代からの親友が『どうして介護するために結婚するのよ。それなら今まで通り、1人で堂々と生きていきなさいよ』と叱咤(しった)激励してくれて。目が覚めました」
人生100年時代とはいえ、健康寿命はそれほど長くはない。確率として、50代半ばで結婚したら、すぐにどちらかが病気になっても不思議はないのだ。
50代の結婚は先を見たら、そんなに甘いものではない。相手の今後の人生を背負えるくらいの愛がなければ、1人でいた方がマシだと気づいた。アオイさんは少し恥ずかしそうにそう言った。








