一方で、「令和6年版 熱海市の観光」によると、2023年の熱海市の宿泊客数は296万9420人、観光レクリエーション客(日帰り客)数は299万4133人。宿泊客49.8%に対し、日帰り客が50.2%と、日帰り客のほうが多い。
温泉街であるにもかかわらず、熱海では「泊まらない街化」が進行しているのだ。
以前、タクシー運転手が「今熱海に来てる若い子ってみんな日帰りよー」と言っていたことを思い出す。スイーツやレトロな街の雰囲気を求める若者にとって、熱海は日帰りで十分に楽しめる街なのだ。
だが、日帰り客が帰った熱海の夜の街では今、新たな“名物”が誕生しているという。
下町の町中華にできる深夜の行列
商店街の店の多くが閉店する18時頃、熱海の街は昼間とは一転、人影もまばらになる。そんな中で、22時以降でも行列の絶えない飲食店が話題になっている。店があるのは、かつて歓楽街として栄えた渚町。海岸沿いの国道135号線と熱海銀座商店街の交差点から海へ向かった先に、レトロな趣のある路地が広がる。老舗レストランや喫茶店などが点在し、古ビルをリノベーションした新たな店舗もある。今熱海でも特に変化しているエリアだ。
その店「熱海飯店」は、2023年にオープンした中華料理店だ。ある週末に店を訪れると、薄暗い路地裏でそこだけ明るく、外には入店待ちの客が列を作っていた。「昔ながらの町中華」を意識した気さくさと良心的な価格、SNS映えするメニューが、観光客にも地元客にも支持されている。
宿の調達は現地で
隣り合わせた観光客とおぼしき女性客に声をかけてみた。愛知県から1人で訪れたその女性は、夕方に仕事を終えてから熱海へ来たという。
「熱海へ来ることは決めていて、新幹線のチケットは事前にとっていました。でも宿は予約していなくて。とれなければ日帰りでもいいかなと思っていた」という。当日空きのあるゲストハウスがみつかって宿泊することになり、この店を調べて訪れた。 ロケ地巡りが趣味で、今回は昨年公開された映画のロケ地を見に来たそうだ。熱海には何度も訪れたことがあり、静岡県東部が舞台になった大河ドラマのグッズも見せてくれた。
熱海はここまで気軽に訪れられる場所なのか――。彼女は「私は特殊な例かもしれません」と笑っていたが、日帰り・宿泊を分けるのは、やはり旅の目的次第なのだと感じた。
より自由なスタイルで旅行を楽しみたい人々にとって、近年熱海に増えているゲストハウスや素泊まりの宿は重宝するに違いない。また、それらの宿の増加が若者を中心とした宿泊者や、宿泊者による街の飲食店利用の底上げにもつながるはずだ。そんなことを考えつつ、ボリュームたっぷりの町中華に舌鼓を打った。
温泉街の文化を守るために
熱海飯店の営業時間は18時から深夜3時まで。オープン時から深夜営業は変わらない。近隣の多くの飲食店が閉店し、歩く人も少ない夜の街で、なぜ深夜営業をはじめたのか。代表の三浦渉さんに理由を聞いた。「コロナ禍がきっかけで熱海へ移住したのですが、当初は居酒屋をやっていて、僕自身もよく飲み歩いていたんです。中でも、週4、5日通う町中華があって、飲んだあとに締めのラーメンを食べに行っていました。その店は、熱海が深夜までにぎやかだった頃から変わらず営業を続けていて、夜はおばあちゃんが店をやっていたんです。ですが、おばあちゃんが亡くなり、深夜に行きたい店がなくなってしまって。それで自分で作ろうと思ったんです」
熱海が団体客でにぎわっていた昭和の頃は、宿泊客が夜でも街をそぞろ歩く光景が見られたという。当時は深夜営業する飲食店も多く、街にはラーメン屋台も立ち並んでいた。深夜に小腹を満たすために提供された「夜鳴きラーメン」は、かつて熱海の温泉街の名物だった。三浦さんは昔ながらの温泉街の文化に惹かれ、その灯を消すことなく守りたいという思いから深夜営業の店を立ち上げたのだという。 勝算があったわけではない。思いだけがあったのだが、オープン当日から連日、店の客足は深夜まで途絶えることはなかった。現在も昼営業にまで手が回らない状況が続いている。
「実は今、周辺の飲食店オーナーさんたちと、熱海に泊まる人が楽しめる場所を作りたいねと話しています。熱海の夜の街には楽しめる場所、集まれる場所がなかったから、人がいなかったと思うんです。そういう場所が今後増えていけば、訪れる人ももっと増えていくと思っています」三浦さんはそう話してくれた。
締めのラーメンが熱海の新名物に
夜鳴きラーメンの文化が根付いていた熱海。その名残から、実は今でもラーメン屋や中華料理店が多い。深夜営業の店は減ったが、新たに“締めのラーメン”を売りにする人気店も登場している。熱海銀座商店街からすぐの場所にある「会心のいち撃」は、2024年4月にオープンしたラーメン店だ。昼は鶏油チーユを使った油そば、夜はしょうゆダレベースの「熱海醤油ラーメン」を提供する。オープン当初は24時までの営業だったが、現在は平日は深夜2時半、週末は3時まで営業する。 「熱海では飲んだあとにラーメンを食べたいという人が多いんです。冬は夜専用メニューとして提供していた鍋焼きラーメンが人気でした」とCEOの根本隆行さんは言う。
締めのラーメンを目当てに訪れるのは、若者からビジネス客、地元住民までさまざまだ。特定のターゲット向けではなく、あらゆる層にニーズがあるのも締めのラーメンの特徴だろう。
温泉街の歴史を感じさせる締めの一杯が、再び熱海の名物として、夜の街のにぎわいをけん引する日も遠くないかもしれない。
<参考>
・「令和6年版 熱海市の観光」(熱海市)
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取材・文:細谷朝子
フリーランス編集、ライター。雑誌、Web、広告等で記事編集、コンテンツ企画、取材、執筆などに携わる。全国の自治体や官公庁の観光サイトディレクションを約10年間担当。インバウンドサイトのディレクション経験も豊富。2021年より熱海在住。