「きみが好きだから、すてきな女性になってほしい」という甘言
「私、それなりに恋愛経験があったんですよ。男を見抜く目は持っていると思っていた。でも30歳直前で付き合い始めた彼は、8歳年上のエリート。仕事もできるし収入も高い。しかもレディファーストが身についていて、椅子は引いてくれるしドアは開けてくれるし。大事に扱われている感じがして、舞い上がってしまったのかもしれません」ハルミさん(33歳)はそう言う。彼は「僕が家庭を持ったら」という話もよくした。自分と家庭を持つつもりがあるんだと彼女が思うのも不思議はない。
「彼の話し方って、すごく説得力があるんですよ。付き合って1カ月くらいたったころかなあ、『やっぱり化粧の上手な女性はすてきだと思う』『ハルミさんも、もう少し化粧に凝ってみたら? もとがきれいなんだからもっときれいになるよ』と言い出して。彼は完璧主義で、自らも節制、筋トレして細マッチョの体型を保っている。私も見習って努力しようと、メイクを研究し始めました。彼にも褒められて、そのうちすっぴんではいられなくなった」
どんなに忙しくても、朝起きると完璧な化粧をする。仕事帰りに彼と会うときは、1度、会社のトイレでメイクを落として再度、きれいに「作り直して」いた。
好きだった飲み会にも行かなくなり
「洋服も彼のアドバイスを全面的に取り入れるようになりました。彼が『揚げものはやめた方がいい』『砂糖は摂取しない方がいい』と言うので、甘いものはいっさい食べなくなった。もちろんお酒も飲みませんし、職場や友人との飲み会にも参加しなくなった」女性がお酒を飲むのを否定はしないけど、自分はお酒を飲まない女性の方がすてきだと思うと彼が言ったのだ。ハルミさんは職場の飲み会も好きだったし、友達と集まってワイワイ飲むのも好きだった。だがそれらはいっさい封印した。
「彼に見合うすてきな女性にならなければ。彼は私を女として引き上げてくれる人だと思い込んでしまったんですよね。私がそんなだから友達も誘わなくなった。それから8カ月ほどたったとき、親しい友人が飲み会に誘ってきたんです。行かないと言う私に、『いいかげん目を覚ましなよ』と。『この前、ハルミのことを見かけたのよ。彼と一緒だったから声をかけなかったけど。ハルミ、化粧は完璧だったけど、無表情だったよ。見ていて怖かった』と言われました」
最近、いつ腹がよじれるほど笑った? そう聞かれてハルミさんは答えられなかった。
それでも彼を信じたが……
ハルミさんは、そういえば最近、大笑いしていないと気づいた。だが自分は「特別な恋愛をしている。完璧な彼に見合う自分になるために頑張っているだけ」と親友の言葉を振り払った。「ただ、彼女の言葉は頭の隅にいつもありました。そんなとき母親から、『今年も地元のお祭りで御神輿かつぐ?』と電話があったんです。私は実家を離れてからも毎年、お祭りには参加していました。御神輿をかつぐのが大好きだったから。実家もそんなに遠いわけじゃないので日帰りできるし。帰るよと言いかけて、彼の顔が浮かびました。それとなく彼にお祭りの話をしてみると『僕は女性が御神輿をかつぐのは好きじゃない。色っぽくない』って。さらに『男と女が同じことをするのは違うと思うんだよね。女性はやっぱりあくまでも男に守ってもらう存在でしょ。腕力や経済力、知能も男にはかなわないんだから』と。さすがに何それと思いました」
彼の本性はこれだったのかと彼女はようやく気づいた。彼がハルミさんに親切なのは、“無力な女性を支配し、自分に従わせる喜び”からだったのだ。
「そのとき私、思わずトイレに駆け込みました。彼の言い分が気持ち悪過ぎて吐いちゃったんです。体全体が彼を拒絶している。そう思いました。レストランで食事をしていたのだけど、トイレから戻ると『気分が悪いから帰る』と伝えました。『さすがにそれは失礼じゃない?』と彼に言われたけど、『私を気分悪くさせたのはあなたの発言』と吐き捨てて帰宅しました」
ようやく「自分自身」に戻れた
翌日、親友に電話をかけて、「飲みに行こう」と誘った。彼女は親しい友人を集めてくれた。ハルミさんは友人にことの顛末(てんまつ)を話し、「今さら男の言いなりになっていたことを恥じる」と頭を下げた。「8カ月もよく保ったよねと友人たちが笑ってくれたので救われました。今思っても、どうしてあんな男を信じてしまったのか分からない。大事にされていると思っていたけど、女を下に見ていただけなんてショックでした」
あなたはあなた、自分の好きなようにふるまい、自由に生きる権利がある。友人たちからそういう言葉をかけられて、ようやく「自分自身」に戻れた気がすると彼女は言った。
あれから2年、まだ男性と付き合う気にはなれないというから、心の深いところでハルミさん自身が思うよりもっと傷を負っているのかもしれない。