祖母が亡くなったときの感情
祖母は言葉も不自由になっていたから、ときどきかんしゃくを起こした。言いたいことがあるのに伝えられないのはつらかっただろう。だがそれを分かろうとしながら分からない中学生の彼女の気持ちを察すると不憫(ふびん)である。「祖母もどこか気持ちがやさぐれていたんでしょうか。ある日帰ったらトイレの前で倒れていたんです。自力でトイレに行こうとして転んでしまったようです。おむつがひどく汚れていました」
救急車を呼んで病院に搬送したが、祖母は再び脳梗塞を起こしており、その翌日に亡くなった。
「正直言ってホッとしたんですが、そんな自分を呪いました。そこへ母が追い打ちをかけるように『あんたがいながら、どうしてこんなことになったの』と私を責めたんです。それですっかり精神的に参ってしまった」
母もやるせなかったのかもしれない。だが中学生の娘にかける言葉ではない。彼女は保健室に駆け込んだ。最初は何をどう話せばいいのか分からなかったが、「教室に戻りたくないなら、ここにいていいのよ」という保健の先生の言葉に救われた。
「少しずつ話をするようになって。『話してくれてありがとう』と言われてびっくりしました。言ってはいけない話だと思い込んでいたし、聞いてくれる人がいるとも思わなかったから。先生が精神科の医師につなごうとしてくれましたが、母は拒絶するに決まっているし、話しただけで嫌がられるから母を介さないでほしいと頼みました」
結果、母に内緒で保健所につなげてもらい、精神科の医師にも相談することができた。その後、なんとか公立高校に進学することができたが、心はズタズタのままだったという。
「なにもかも忘れるように勉強に打ち込みました。好成績を出して、高校の先生から大学進学をするようにと母に言ってもらった。渋る母に『私がおばあちゃんのめんどうを見なかったらどうなっていたと思ってるの?』と脅すようにして進学費用を出してもらいました。そうでもしなかったら一生、母を恨みそうだった。精神的にはいつもギリギリのところを歩いていたような気がします」
自分のことだけ考えて、自分の将来を作って
やっと落ち着いたのは、大学に入学してからだ。親しくなった女友だちが住むアパートに転がり込んで家に帰らなくなった。それからは友人宅を転々としたり、男友だちと同棲したりした。何があっても自宅に帰るよりマシだった。「大箱の水商売で働いたとき、寮があったんです。アパートを借り上げていたんですね。個室だったし、本当にありがたかった。昼は大学、夜は仕事でしたが、あの時期が一番楽しかった」
誰かの世話をしなくていい。自分のことだけ考えて、自分の将来を作っていける。そんな環境に身を置けたのは初めてだった。一生懸命勉強し、大学在学中にある資格をとり、それを手に就職先を決めた。
「数年前、弟から連絡があったんです。母が倒れたと。『自分で考えて決めなさい』と突き放しました。もう私は介護はしたくない。はっきりそう言いました。冷たい娘だと思うけど、私には私の人生がある。介護で人生を潰されたくない」
祖母を介護したときの心の傷は今も癒えない。それは介護や家事がつらかったのもあるが、祖母の死を願ったことへの罪悪感が強いという。母親でまた同じことを繰り返したくなかった。
「弟はすでに結婚しているので、義妹の知恵で母をグループホームに入れたようです。賢明な選択だと思う」
そう言う彼女は今も独身だ。怖くて家族を持つ気にはならないと真顔で言った。ヤングケアラーの問題点は、目先の大変さだけでなく、彼女が言うように人生を潰されてしまう危険性があること、そして“家族というもの”への不信感へとつながっていくことなのかもしれない。
※参考:こども家庭庁「ヤングケアラーについて」