親との精神的決別
「忘れものといえば、私にとっては母との関係ですね」淡々とそういうのはアイコさん(53歳)だ。50歳を迎えたとき、自分の年表を作ってみた。産まれた日、3歳のころのおぼろげな記憶。母に怒られてばかりいた7歳のとき。そして9歳になったところで手が止まった。
「このころ、私はひどく傷ついたことがあったんです。母は、今でいうモラハラを父から受けていた。私は当時、そう思っていました。文句ばかり言われている母がかわいそうでたまらなかった。だから夏の暑い日、一緒に買い物に行ったとき、母の大好きなかき氷をごちそうしてあげようと思ったんです。買い物が終わって母にそう言いたいのになかなか言い出せない私に、母は『何よ、帰らないの? どうしたの』と言った。私がかき氷のことを言うと、『かき氷が食べたいならそういえばいいでしょ。早く帰らないとまたお父さんに文句言われるのに』と、イライラしながら甘味処に入っていったんです。私が食べたかったわけじゃない、ママにごちそうしたいと言ったら『はいはい、いいのいいの』と流されて、結局、母はイライラしたままで、ふたりともかき氷も全部食べずに店を出ました。もちろん代金を払ったのは母でした」
自分の思いをくみ取ってくれない母に不満を感じたとアイコさんは言う。もしかしたら母も何かを感じたのかもしれない。それ以来、母は以前にも増してアイコさんを叱るようになった。「あんたはグズ」「言いたいことも言えないの?」などという言葉をぶつけられた。だが言いたいことを言えば言ったで「あんたは私の言うことを聞いていればいいの」と怒られる。
「完全に支配する母でしたね。その母と対峙しないまま大きくなって、結婚後も共働きの我が家に来ては『主婦として失格』と烙印を押す。それでも私は母に何も言い返せず、ことを荒立てないようにしていました。でも50歳になったころに作った年表で、母との関係のいびつさに耐えられなくなった。母と自分の関係を変えたい、もう一度、若いころに戻って関係を正したい。そう思いました」
80歳近い母を責めるつもりはなかった。ただ、母に「娘を支配しようとしていた」と認めさせたかったのだという。
「そうすれば私の心の奥の苦しさが癒される。そう思いました。だけどどう水を向けても、母は認めようとしない。それどころか『誰のおかげで、いい大学を出ていい会社に勤めることができたと思ってるの。私が道筋を作ってあげたからでしょ』と言い出した。そのとき、私はあきらめました。この人を理解することも理解してもらうことも無理だし、そこに時間と労力をかけるのは無駄だと。そしてあきらめたとき、あきらめるという感覚が「忘れものをとりにいく」ことだったんだとわかったんです。私は母をさっさとあきらめたかったんです。高校生くらいのときにしておくべきだった。そうすれば精神的ないい距離ができたのではないかと思います」
自分から10歩くらい離れてみたら、母が何を叫んでも聞こえなくなった。つまりはすべてを客観的にみることができるようになったのだろう。
「母と私の関係、ということも考えるのをやめました。母は母、私は私として考える。そうすると精神的な距離が保てて、母を心の中に入れなくてすむ」
忘れものを取りに行くというよりは、忘れものが何であったか見つけることが重要だったのかもしれない。それでも以前より苦悩がなくなり楽になった。
「今後は介護の問題なども出てくると思うけど、母は母、私は私と考えれば心を疲弊させずにすむような気がします」
50歳にしての「自立」なのかもしれない。母とつながっていた太い縄を勝手に切ってみたら、非常に生きやすくなっているとアイコさんはつぶやいた。