都会で働くグラフィックデザイナーが、長野の高原に山小屋を建てて移住!?
今年76歳になる保坂一彦さんは、標高1400mにある信州山形村の清水(きよみず)高原で、建坪でいえば12坪程度の小さな二階建ての山小屋を建て、72歳の妻と暮らしています。居住する山小屋は小さくても、自宅の敷地は250~260坪と、都会では考えられない広さ。「天気のいい日は敷地内を夫婦で散歩し、枯れた枝を集めたり、ビオトープ(自然の生態系を再現した池)の土留めを整備したり、集めた枝や半端な木材を削ってスプーンや小皿などの木工細工をしたり……と、山と森に囲まれた暮らしを満喫しています」という保坂さん。
山と森に囲まれた清水高原
ちょうどその頃、世の中がバブル経済に向かいつつあった1970年代後半から80年代にかけて、地方でも土地開発などが盛んになり、長野県ではあちこちで町や村との共同開発による別荘地の造成が始まりました。
保坂さんはもともと、若い頃から山暮らしにあこがれていたため、そんな別荘地に関心を持ち、調べていました。目を付けたのは、母親が暮らしていた実家と東京のほぼ中間にあり、行き来がしやすい現在の清水高原でした。地元の山形村がかかわった開発なので、他の民間業者の造成地よりも価格が手ごろだったこともあり、80年代の終わりに清水高原の別荘地の一区画を購入し、山小屋を建てることにしたのです。
「山小屋の建築は、建築雑誌を見てほれ込んだ中村好文氏に依頼。今や売れっ子の建築家ですが、当時から忙しく、依頼してから2年待たされて、1991年に山小屋が完成しました」(保坂さん)
建築家の中村好文氏に建ててもらった山小屋のリビングからの眺め
完成後は毎週末のように東京から山小屋に通い、行ったり来たりの生活をしていました。
バブル崩壊後は仕事が減少したため、会社をたたんでフリーのデザイナーとして働いていましたが、思い切って山小屋に移住するまで20年かかったといいます。
「2000年頃に一度移住しようかと思ったのですが、当時はまだインターネット環境も不十分で、地方に移り住んだら仕事ができなくなりそうで断念。それから10年経ち、高速のネット環境が整ったことや公的年金の一部支給も始まっていたため、2010年に東京の賃貸マンションを解約して、今の山小屋に引っ越したのです」(保坂さん)
森での暮らしは体を使ってやることがいっぱい! 地元の移住仲間とも協力してイベントも開催
新たに移り住んだ場所は、自然のままの森に囲まれ、ときにはリスがベランダ近くまで寄ってくるなど、自宅に居ながら四季の移り変わりを楽しめます。春は山菜やフキノトウを採取し、ハーブも育て、夏や秋は冬に備えて暖炉の薪を用意するなど、戸外でやることもたくさんあります。冬は雪が積もりますが、自宅の敷地前までは村の除雪車が入るため、雪かきをするのは玄関までの道だけで大丈夫。車で20分も走れば大きなスーパーがあり、病院や役所、図書館、美容院などもある村の中心地に行けるため、不便を感じることもないといいます。移住した翌年の2011年から、保坂さんは他の移住者や地元の人たちと協力して、さまざまなイベントを企画し、動き出しました。
保坂さんは他の移住者や地元の人たちと協力して、さまざまなイベントを企画
1日だけの即売会「カタチ展」を実施
普段から保坂さんがこつこつと木を削りだして手づくりした小物などを野外に展示
イベントのPRと清水高原の魅力を伝える小冊子「Kiyomizu News」も発行
とはいえ、地域のことがわかってきた昨今は、いろいろと考えることもあるそう。「ここ清水高原は保養休養地(別荘地)という位置づけのため、自治体も広報誌やホームページなどで積極的にその魅力や情報を伝えていません。できればもう少し活気ある地域にするために、〈モノづくりの郷(Art Village)〉といった特徴を創出し、定住者を増やし、リゾート地として滞在したくなるような工夫があればいいなと思う」と、この地を愛すればこその、先々に向けての課題にも目を向けています。
山で暮らす――そんな若い頃の「想い」を、60歳過ぎてから実現できたことは、幸せなこと。「ここで、自然の中にドップリつかり、自然の営みとシンクロしながら生きること……。カッコつけていえば、そんなところかな」というのは、保坂さん自身が今の暮らしを表した言葉。本音の混じった照れ隠しのセリフに、写真で見る高原の景色が重なりました。
興味のある方は、保坂さんの日々の暮らしをつづるブログ「森の暮らし…清水高原の風」をのぞいてみてください。
記事作成協力:インタープレス