彼との初詣は宝物のような時間だった
「不倫だから初詣なんか行けるはずはないと思っていたんです。でも彼から『きみの家の近くに神社ある? 一緒に初詣しよう』と誘われて。彼と出会って初めてのお正月だから、すごくうれしかった」そう言うのはマリナさん(32歳)だ。この話は昨年のお正月のことだ。一昨年春から付き合い始めた一回り年上の彼から、年末に連絡があり、元日の昼に彼が彼女の家にやってきた。
「お正月なのに会えるなんてうれしいと彼に抱きついたら、『行事に疎い家だからさ』って。奥さん何とも思わないのかなと心配でしたが、もともと家庭の話はしない人なので、それ以上は聞けなくて。『オレが大丈夫と言ってるんだから大丈夫だよ』と抱きしめられて、彼を信用しようと思いました」
一緒に初詣に行ったあと彼とふたりでマリナさんの自宅に戻った。マリナさんの手料理をおいしそうに食べ、まるで自分の家にいるようにくつろいでいる彼を見て涙が出たという。ゆっくりと過ごした彼が帰って行ったのは、もうじき夜が明けるころ。
「きみが元日をひとりで過ごすのかと思ったらつらくてたまらなかった、少しの時間だったけど一緒に過ごせてよかった、ごめんねと言って、彼は帰っていきました。本当にうれしかった。彼は職場の上司なんです。もちろんいけないことをしているのはわかっていたけど、好きな人と一緒にいられる時間は宝物でした」
彼女は実家が遠方で、すでに父は亡い。母は兄一家と暮らしており、マリナさんは兄の妻とうまが合わないという。母も遠慮がちに「あなたが帰ってくるといろいろ面倒だから」と電話で暗に帰ってくるなと言わんばかり。だから年末年始はひとりで過ごす覚悟をしていた。だが思いがけなく彼が来てくれたので、急に気持ちが明るくなったそうだ。
しかし、その後とんでもないことが待っていた。
新年初出社、会社の雰囲気がおかしい?
1月4日、出社してみると、なんとなく会社の雰囲気がおかしかった。大晦日に社長の甥である専務が急死したのだとすぐにニュースが流れた。5日に通夜、6日に葬式とすでに段取りは決まっていた。とはいえ、「末端社員の私たちの業務にはあまり関係がないから、通常業務を続けていました」とマリナさんは言う。「ただ、彼はやけに忙しそうだったんです。だんだん詳細がわかってくると、彼の奥さんが専務の娘だったことがわかって……。周りの噂では、彼はたいして仕事もできないのに玉の輿に乗ったんだ、と。確かに彼、いい人だけどバリバリ仕事をしていくタイプではありません。誰にも言えないけど、なんだか私、混乱していましたね」
彼の妻が専務の娘だったことはほとんど公になっていなかったから、マリナさんが知らないのも仕方がなかった。だがその後、彼の妻が父親の急死で病院に駆けつけたとき、彼は一緒に行かなかったとか、その後も妻に寄り添っていなかったとか、詳細な話が会社中を駆けめぐった。
「元日の彼の様子を思い浮かべながら、義父が亡くなっているのに私の家で過ごしていたのかと……。どうやら彼は妻のおかげで今の会社に転職できたらしいので、それも含めて、恋心が冷めていったというか、彼への気持ちが変わっていったというか」
穏やかで大声を出したりしない彼を、マリナさんは愛していた。ところが父を亡くしてショックを受けている妻に寄り添いもせず、自分のところに来てしまった彼をどう考えればいいのかわからなかった。
「お葬式が終わった日の夜遅く、彼がふいに私の部屋に来たんです。『いろいろ大変だったね』と言ったら、『これでオレの会社生命も終わりかもね』って。この期に及んでも自分の出世のことを考えているのかとちょっと嫌な気持ちになりました。あの日、すでに奥さんのお父さんが亡くなって大変だったんじゃないのと聞くと、『まあ、でもオレにできることは何もないから』と。おそらく彼女の実家からも、彼はあまり頼りにされてなかったんでしょうね。でもその日は妻と一緒にいるべきだったと私は思う。彼にそう言ったら、オレはそういう立場じゃないんだよってさみしそうに言っていました」
妻と妻の実家の立場は強く、彼は常に場違いのような感覚を味わわされていたのかもしれない。それでも、お葬式で泣き崩れていた彼の妻の姿を思い起こすと、マリナさんは彼の本性が見えたような気がしてならなかった。
「追い打ちをかけるようで悪いなと思ったけど、そのままフェードアウトのように関係を終えました。彼からは何度も連絡があったけど、どうしても人として信頼できないと思って……。結局、半年後に彼は降格、それを受けて退職したんです。どうやら離婚も成立したみたい。私は彼にとって、寂しさを埋めるための道具だったのかもしれません」
そこに「本当の愛」を見つけられなかったマリナさん。もしかしたら彼の愛は本物だったかもしれない。義父の死をきっかけに、もともと不仲だった家庭の崩壊が顕著になっただけという可能性もある。彼をまるごと受け止めるには、交際期間が短すぎたのか、あるいはそこまで本気にはなれなかったのか。
「あのとき彼が真実を話して、義父と妻のために誠実に尽くしたあげくの離婚だったら、私は彼を受け入れたと思う。義父の死を私との逢瀬のチャンスとした彼の気持ちが嫌だったんです」
彼の本当の気持ちはわからない。だが何かがすれ違ってしまった。そんな苦い思いから1年がたつが、正月というと一生、あの件を思い出すはずと彼女は顔を曇らせた。