結婚後に経験した初めての恋
カスミさん(41歳)の父親は会社経営者だった。ひとり娘である彼女は、25歳のとき、親が決めた相手と結婚した。「今どきそんなことあるのかと思われるでしょうけど、あるんですよ。まあ、無理矢理ではなかったし、お見合いをしてよさそうな人だったからOKしたんですが。男性を見る目もなかったし、私自身、そういう親に逆らえずに大きくなったということですね」
とはいえ、決して「お嬢さん育ちではない」と彼女は言う。ごく普通に質素に育ったと主張する。学生時代にはアルバイトもしていた、と。
5歳年上の夫も実業家の家に育っていた。両家の利害が一致した上での結婚だったようだ。結婚後は夫の実家近くに家を購入して暮らすことになった。
「夫の両親は別にうるさいことは言わなかったし、新婚当初から快適な生活でした。31歳までに3人の子を産み、私の役目は果たしたという感じですね。あとは子どもを無事に大きくするだけ。子育ては楽しかったし、夫に言えば手伝ってくれる人も呼んでくれたので、恵まれた家庭生活だったと思います」
状況が変わったのは2年前。コロナ禍で夫の会社が危機にさらされた。もちろんカスミさんの実家の家業も決していい状態とはいえなかった。
「私もかなり焦りました。子どもは全員私立に通っていましたが、このままだと通い続けることができないかもしれない。夫は『今は我慢。きっと大丈夫だから心配するな』と言うけど、詳細がわからないからこそ不安だった」
最初の緊急事態宣言が解かれたあと、カスミさんは自分も働こうと思うようになった。とはいえ、就職したことのない彼女はどうしたらいいかわからない。
「学生時代、ファミレスでアルバイトをしていたことがあるんです。ときどき子どもたちを連れて行くこともありましたし、なんとなくなじみがあった。そうだ、ファミレスで働いてみようと思い立ったんです」
夫には言わずに面接を受けた。幸い、ちょうど人手不足だったこともあって採用され、1日数時間、働くようになった。
「20年近く前の学生時代のアルバイト経験が、案外役に立ったりしましたね。久しぶりに働くのは楽しかった。若い人や同世代の主婦もいたので、仲間ができたのもうれしかった」
頭を使って動き、お客さんに心地よくいてもらう。それを心がけているうち、彼女は接客に関して店長に褒められるようになった。
憧れの年下店長に口説かれた
店長は彼女より年下の男性だったが、同世代の男性や夫と比べて気軽に話せた。「今どきの30代って、けっこう男女平等の意識が高いんですよね。パートの意見も率直に聞いてくれるし、本当にいい店長だなと思いました。しかもイケメンだった(笑)」
自分でも意識しないうちに、彼女は店長に惹かれていった。無防備な彼女を“落としやすい”と思ったのか、店長は彼女を食事に誘うようになった。
「でも家庭があるから夕方には家にいないといけない、そう言うと店長は『じゃあ、今度、お休みのときにランチでも』って。ランチが実現したのは半年後くらいでしたね」
そしてランチで口説かれ、カスミさんはそのままホテルへ行ってしまう。どうしてそんなに簡単にホテルに行ってしまったのか自分でもわからないと彼女は言う。
「店長がドライブに連れていってくれて、海が見えるレストランで素敵なランチをして。それで私、雰囲気にすっかり酔ったようになってしまった。そのままホテルに車を入れられても抵抗する気にはなれませんでした。だってずっと『カスミさんのような素敵な女性に会ったことがない』『一度だけでいい。このまま帰したら僕は一生後悔する』なんて言われてしまうと……」
そこまで強烈に求められたことがなかった彼女は、そういう言葉だけで頭がクラクラするほど感動したのだ。
「不倫したという実感はありませんでした。帰宅して夫の顔を見ても、いけないことをしたとは思えなかった。現実感がなかったんでしょうね」
数日後、ファミレスに行くと、店長が突然辞めたという噂で持ちきりだった。辞めただけでなく行方がわからないのだという。カスミさんも彼の携帯に電話をかけたがつながらなかった。
「別に会社の金を持ち逃げしたとか、そういうことでもなかったらしいし、のちに退職届が送られてきて解決したみたいです。だけど解決しないのは私。あのとき、彼はすでに辞めると決めていて私を口説いたのか、辞めるから落としてしまおうと思ったのか。いずれにしても私は遊ばれただけだったんですよね。わかっているのにそれを認めるのがつらくて、つながらない携帯を何度も鳴らしたりしました」
仕事に行くのがつらくなり、彼女もファミレスをやめた。夫の会社はさまざまな公的補助を使って継続していくことができた。
「最後まで夫には私が働いていることを言わなかったし、バレなかった。たいした収入にはなりませんでしたが、仕事自体は楽しかった。ただ、今でも店長のことを思い出すと、すごく屈辱感があるし、モヤモヤした気持ちが抜けないんです。彼にとって私は何だったのか……。たった1回のことをそれほど思い悩む必要はないのかもしれませんが、私にとっては大冒険だったわけで」
店長本人に恋していたのか、恋に恋していたのかはわからないが、自分の気持ちがもてあそばれた不快感があるのだろう。
「一度だけでいい、と彼は言いましたが、最初から一度だけのつもりだったんでしょうね。理屈ではわかっていながら、彼の本心はどうなのか、今でも私を思い出すことはあるのか。聞いてみたくてたまらないんです」
彼の中での自分の存在感を知りたい。せめてあの一瞬だけでも大事だと思ってくれたのだろうか。恋する女性の気持ちは、10代でも40代でも変わらないのかもしれない。