身勝手な夫に30年も尽くしてきてた
「生まれ育った家庭も、結婚してからの家庭も、父親と夫に逆らえないものでした。母が『男には逆らっちゃいけない』というタイプでしたからね。故郷は田舎だったこともあって、男尊女卑が強いところだったと思います」クニコさん(58歳)は少し微笑みながらそう言った。どこか人を慈しむような温かい微笑みである。
「東京の短大を出て就職して、26歳のときに社内で知り合った人と結婚しました。当時は、結婚したらなんとなく社内にいづらくて辞めました。バリバリ働くタイプでもなかったし。28歳で息子を、31歳で娘を出産して。子育ては楽しかった。夫は仕事に接待にゴルフにと忙しかったから、今でいうワンオペでしたね」
深夜に夫が帰ってきても食事をすると言われれば、文句も言わずに支度をした。「昼間は寝ていられるんだからいいよな」と嫌味を言われても黙ってやり過ごした。子どもたちの成績が悪いと「誰に似たんだか」と言われた。そのうえ、夫は自分の親の具合が悪いとクニコさんに看病させたという。
「同居はしなくてすみましたが、夫の実家から30分ほどのところに住んでいたので、通いの家政婦みたいでしたよ、一時期は。2軒分の家事をして、親のめんどうをみて子どもの世話をして。夜中までアイロンがけをしたり、夫に言われればマッサージをしたり。それでも夫の給料日には頭を下げてお金を押し戴いていました。夫に生活費をもらっていたのは確かなので、そうするべきだと思っていた。子どもたちが大きくなってからはパートで働きましたが、夫にはバカにされていましたね。『お気楽主婦になにができるんだ』って」
働きながら介護もして、夫の父を見送り、5年前には義母も送った。義母は最後まで、「あなたみたいな嫁をもったのは息子の一生の不覚だ」と言っていた。クニコさんが短大出だということを最後まで根に持っていたようだ。
「50代になって子どもたちも独立していき、3年前からは夫とふたり暮らしです。夫は私の具合が悪くても心配する言葉ひとつかけるわけではなく、私がここにいるのに夫はまるでいないかのように振る舞う。関心がないんでしょう」
それほど寂しいことはないに違いない。いるのにあたかもいないかのように扱われるなんて。それでも、「こんな男を選んだのは自分だから」と思って耐えてきた。
自分で自分に驚いた、恋する気力が残っていたとは
子どもたちが家から出ていき、時間ができたので、昔からやりたかったピアノを習うようになった。音楽は心を癒やしてくれる。音楽教室に来ている人たちとお茶を飲んだり、ときには食事会をしたりと親しくなっていった。「そこに来ていたのが自営業のテツヤさんです。私より5歳も年下なんだけど、とても気さくで明るくていい人。彼が『あなたがいつも寂しそうなのが気になる』と言ってくれて。夫の愚痴なんか言いませんが、それでも何かを察してくれている。生まれて初めて男の人に惹かれました」
夫とは社内恋愛ではあったが、彼女にしてみたら「恋愛」ではなかった。夫のほうから一方的につきあおうと言われ、4歳年上の先輩に逆らえずにつきあった。結婚という話が出たときも「そんなものだろう」と納得して覚悟を決めた。ひとりでずっと仕事をしながら生きていくのもしんどいと感じていたからだ。
「だからこそテツヤさんに惹かれたことを自分でも驚きました。私にも恋をする気力が残っていたんだと。人を好きになるって胸が苦しいということだと初めて知ったんです」
テツヤさんはバツイチだった。15年に及ぶ結婚生活を解消して数年がたっていた。ひとり娘は妻がひきとったが、彼はいつでも会えるのだという。
「ひとりは気楽だけど、最近、ちょっと寂しいと言っていました。1年ほど前、食事会の帰りに彼に誘われて家に行ってしまったんです。もう私には性的な能力なんてないと思っていたけど、彼に抱きしめられて体の力が抜けて……」
20数年ぶりに男性と性的関係をもった。下の子が産まれてからはほとんどセックスレスだったのだ。
そこから彼女の「恋心」が全開となった。テツヤさんのことが好きでたまらない。会いたい、顔を見たい、話したい。欲望が募っていく。だがクニコさんは離婚する勇気がもてない。
「このまま夫と添い遂げたいわけではなくて、本当はひとりになりたいんです。でも自分の人生にそんなことが起こるとは思っていなかったので、離婚という選択肢を現実のものとして考えられない。彼はゆっくり待っていると言ってくれています。夫はあと3年で65歳。定年を迎えます。そのときまで我慢したほうがいいのか、あるいは今、思い切ったほうがいいのか……。そもそも離婚なんてできるものなのか。子どもたちにも相談できないし、どうしたらいいかわからなくて」
それでもテツヤさんへの思いだけはどんどんふくらんでいく。恋をしている自分が信じられないが、知らず知らずのうちに心が弾んでいることもあるようだ。
「久々に娘に会ったら、『なんかおかあさん、生き生きしてる』と言われました。パート先の人にまで『最近、前と違ってよく笑うようになったわね』って。楽しいという感覚を何十年ぶりかで感じているんです。この年で恋をしているなんてヘンだと思う。でも自分の気持ちを押し殺すことができない。私が同い年の既婚女性が恋をしていると聞いたら、おかしいんじゃないのって思うでしょうから、きっとこれを知った人は気持ち悪いと感じるんじゃないかと」
いくつになっても恋心は眠っている。それを起こしてくれる人に出会ったのではないだろうか。離婚するしないはクニコさんの決意次第だが、生まれて初めて「逆らっても怒らない男の人」に出会い、「ふたりで話して笑う」ことができたのだ。その関係自体は得がたいものと考えていいのではないか。
幸せが目の前にある。それをつかみとるのに躊躇はいらないはずだ。