彼の「好きなようにさせる」のが私の幸せ
相手を変えようなどとは思わなかった。好きな人には、自由に振る舞ってほしい。それを受け入れるかどうかは私の判断。そう思いながら、好きな人と暮らしてきた会社員のサエコさん(34歳)。「6歳年下のキョウイチと出会ったのは30歳のときです。彼は大学院生で、私がときどき行く喫茶店でアルバイトをしていました。なんとなく話すようになって、私からデートに誘ったんです」
おいしいものを食べさせてあげようと思ったのだという。イタリアンをたらふく食べながら、彼はアパートの更新が近いけど更新料が払えないと愚痴った。
「それならうちに来ちゃえばと軽く言うと、本当にいいの?と。そこから始まった恋でした」
彼はすぐに越してきた。荷物はむずかしそうな本が大半で、彼はそれらを1LDKの部屋の片隅に置いた。リビングが広いので、サエコさんはパーテーションを立てて彼の“居場所”を作った。
「彼、喜んでくれて。これなら勉強もはかどるって。実際、私が帰るとよく勉強していたし、昼間は研究室に行って、合間にバイトして。忙しいのによくがんばってるなと思っていました」
サエコさんが来ると気もそぞろになるから、バイト先には来ないでほしいと言われ、彼女は忠実にそれを守った。
「年下だから私が偉そうなことを言うと嫌われるんじゃないかと遠慮がありました。それに私、彼が自由に振る舞うのを見るのが好きだったんです。だから作った料理を『おいしくない』と言われても、どうやったらおいしくなるのか、何が足りないのか彼に尋ねては、もっとおいしいのを作ろうと努力しました。彼の好きな私になることが目標だったんです」
会社では若くしてチームリーダーに抜擢されるなど、バリバリに仕事をしていた彼女だが、家では彼の言うことを聞くおとなしい女になった。それが彼女にとって、当時は楽しかったのだという。
些細な我慢が積もって
ところが少しずつふたりの歯車が狂っていく。最初は彼に大学院の話を聞いたときのことだった。「彼、ほとんど話してくれないんですよ。どんな研究をしているのか、研究室にはどんな人がいるのか……。『何でそんなことを知りたがるの? オレを支配したいの?』と言われたら、それ以上聞けない。でも私の中で、なんとなく不信感が芽生えたんですよね。一緒に暮らして1年ほどたったときのことでした」
彼が人生にどんな目標をもっているのか。わかれば応援のしがいもあるのに。そう思ったが、彼の嫌がることには踏み込まないでおこうとも感じていた。
「2年くらいたったときかなあ、引き出しに入れておいた5万円がなくなっていたんです。それはふたりのその月の生活費でもある。彼はいっさいお金を払ってくれませんでしたし、私も請求したことはない。足りなかったら使っていいよとは言っておいたけど、黙って5万円全額を持っていくのはどうなのか。彼にそう言ったら、『オレは知らない』という。持っていってもいいけど、何に使うのか、せめて一言断ってから持って行くのが筋ではないかと言ったら急に不機嫌になって。『わかった、もういい。出ていく』って。泣いて謝ってすがって、そのときはおさまったんですが、よく考えたら、どうして私が謝らなければいけないのかわからなくなったんです」
3歳年下の妹に相談した。妹はいつも冷静で論理的な人間だから、恋愛で困ったときはいつも妹に話してきたのだ。
「キョウイチのことは妹にも話していましたが、彼が年下ということもあって、なかなか相談はしづらくて。いつもうまくいってるよと言うだけでした。でもさすがにこのお金の件があったときは相談したんです。そうしたら妹が、『おねえちゃん、騙されてるよ。彼、たぶん大学院には通ってないよ』って。まさか、そんなことがあるはずないと言ったのですが、そういえば学生証も見せてもらったことがないと気づいたんです」
その日は妹とふたりで実家に泊まる予定だったのだが、なんとなく嫌な予感がして、彼女は妹と早めに別れてひとり自宅に戻った。
「玄関の鍵を開けたとたん、やられたと思いました。女ものの靴があったから。案の定、ふたりは私たちのベッドで抱き合っていました。私の中で何かがブチ切れました」
キョウイチさんは「彼女は悪くないんだ」と女性を逃がそうとした。サエコさんは「わかった。あなたが悪いんだから、あなたも出て行って」と叫んだ。
「彼はどっかりとソファに座って、『オレが出て行ってもいいんだな』と。その瞬間、行かないでとすがりつきたかった。でもここでそれを言ったら、私はもっと“自分”でいられなくなる。妹に言われた『騙されてるよ』という言葉が頭の中にこだましました。『ねえ、学生証見せてくれる?』と私が言うと、キョウイチは今まで見たことがないような怖い顔をして、バッグに身の回りのものを詰め始めました。何度行かないでと言いそうになったことか」
女性はいつの間にかいなくなっていた。そしてキョウイチさんも出て行った。引き出しを開けるとまたお金がなくなっていた。
「翌日、私は部屋を探して、3日後には引っ越しました。彼との思い出のベッドはもちろん捨てたし、彼がいつも座っていたソファも捨てて。彼のことが嫌になったというよりは、ここで自分を切り替えなければ人生が終わってしまうような気がしたんです」
プライドをなくして彼に尽くすだけの人生になってはいけないと感じたのだという。彼への恋心はまだじゅうぶん残っていたが、それに惑わされたら終わりだと思った。
「あとで大学院に彼のことを問い合わせたら、やはりそういう人物は在籍していませんと言われました。結局、2年くらい暮らしたのに、私は彼の実家のことも何も知らない。妹が彼のバイト先の喫茶店に行ってくれたんですが、彼はすでにバイトを辞めたあとでした。彼の履歴はすべて嘘だったのかもしれません」
なめられたね、おねえちゃん、と妹に言われた。
ただ、あれから時間がたってみると、2年間のうち、最後の数カ月は嫌な思いもしたが楽しいこともたくさんあったと彼女は思っている。
「ダメだったのは私かもしれないと今は思っています。恋する気持ちにつけ込まれたんですよね。私がもっと自分らしく彼に接していれば、違う関係が作れたかもしれない。自分を隠したわけじゃなくて、彼のことが好きなあまり、従順な女を自然と演じてしまったんだと思います。本来は従順ではないのに……」
あれからまだ恋はできずにいる。だが、今度は必ず「恋することと言いなりになることとは違うと肝に銘じて」関係を作っていこうと決めているそうだ。