ネグレクトで育った私、子どもだけは大事にしたい
子どもを虐待するニュースはとどまることを知らない。親だけを責めても解決にはならないが、実際に親に育児放棄されつつ育った女性に話を聞くことができた。彼女はどうやって過去を生き、今を生きているのだろうか。
変わった家庭だと気づいたのは小学生のとき
「娘が来春、大学生になるんですよ」
マリコさん(36歳)は、穏やかにそう言って微笑んだ。高校3年生で妊娠に気づき、卒業したその年の夏に子どもを産んだ。相手は近所の大学生。一応、婚姻届は出したものの、彼は子どもが生まれて3日もたってからようやく病院にやってきた。そんな結婚生活が長く続くわけもなく、20歳で離婚したという。
「そもそも、私が育った家庭が変わっていたんです。母はまったく家事をやらず、ほとんど自室にこもっていました。物心つくまでどうやって育ったのか、私にはわかりませんが、聞くところによると近所に住んでいた親戚が手伝ってくれていたようです。父は無口な人でね、ほとんど話した記憶もないくらい」
小学校に上がって友人の家に遊びに行ったとき、友人のおかあさんが手作りのクッキーを出してくれたり夕飯の支度をしてくれたことにびっくりした。
「こういうものが家で作れるんだと初めて知って。その日、夕飯を食べていきなさいと言われてごちそうになったんですが、それもまたびっくり。見たこともないものが出てきましたから。今思えば、普通の家庭料理だったんでしょうけど。そのころ、私が帰宅するとテーブルに300円とか500円が置いてあり、ひとりでおにぎりやカップラーメンなどを買って食べていたんです。だから人の家の夕飯を食べたのは初めてで、あんなごちそうが出てくるんだと驚いた」
母もまた、自室にこもってカップラーメンなどを食べていたらしい。母の分の買い出しは誰がしていたのか、ほとんど記憶がないという。
小さいころの彼女は、いつもお腹をすかせていた。緑豊かな地域に住んでいたので、道端で草を摘んで茹でて食べたこともある。給食のとき、残ったパンやごはんは必死に確保した。
その後、テレビなどを観て、一般の家庭がどういうものなのか徐々に知るようになった。小学校中学年になると、マリコさんは父親に言って自分でご飯を炊き、おかずらしいものを作った。図書館で借りてきた料理の本に載っているレシピを全部試してみたそうだ。
「母には部屋の前に置いておきました。父は私の料理を食べて涙ぐんでいましたね。父も家庭をどうにかしたかったんじゃないでしょうか。だけど仕事も忙しかったみたいだし、どうしたらいいかわからなかったのかもしれない」
マリコさんが小学校6年生のとき、母が亡くなった。おそらく自死だというが、母がどういう状況でなぜ亡くなったのか、彼女は知らないままだ。
高校入学と同時に父が行方不明に
地元の高校に入学すると同時に、父が家に帰ってこなくなった。そのまま行方がわからなくなったが、なぜか2ヶ月に1度くらい、彼女の口座にお金が振り込まれていたので生活することはできた。「ただ、寂しかったですね。近所にいた親戚もほとんど顔を見せなくなり、私からは遠慮して行かなかったし。小さいころからずっと寂しかったけど、高校時代がいちばんつらかったかもしれない。自分が大人と子どもの狭間にいて、自分の感情をうまく処理できなかったから」
高校3年生になっても先が見えなかった。大学に行く費用はない。かといって就職する気にもなれなかった。親身になって相談に乗ってくれる大人も周りにはいなかった。そもそも、彼女自身が大人を信用していなかったから相談するつもりもなかったようだ。
「3年生の夏頃から、他校の男子の先輩だという大学生とつきあっていました。彼にはけっこういろいろ相談したけど、今思えば彼だって子どもみたいなものですから、解決はできない。そうこうしているうちに男女の関係になりました。妊娠に気づいたのは卒業するころです」
すでに妊娠4ヶ月。お腹の子が、先の見えなかった彼女の「希望」となった。彼の親は猛反対、中絶を迫られたが彼女は頑として受けつけなかった。
「そのころは彼も真摯な対応をしてくれていたんですよ。ふたりで育てよう、と。大学はやめない、アルバイトをするから貧しくてもがんばろうって。夏前には婚姻届を出しました。だけど実際、臨月になったころから彼は冷たくなって。いざとなったら怖くなったんでしょうね」
20歳で離婚、彼女は2歳の子を連れて上京した。東京なら、なんとか働きながら暮らしていけるのではないかと思ったからだ。そこからはお決まりのように水商売を転々とした。寮と託児所のある職場は他になかったからだという。
「必死に働いてお金をためました。子どもが小学校に上がったら、昼間の仕事をしたかった。ここだけの話ですが、昼間は風俗、夜はキャバクラで働いていたこともあります。娘の笑顔を見れば、何でもできると思っていた」
娘を愛することで、彼女は満たされていた。自分が受けられなかった愛情を、自ら子を愛することで“感じる”ことができたのかもしれない。
5年間、がんばって働き、そこそこのお金を貯めた。そしてその間、彼女は看護師になりたいと思うようになった。長く働けて、人の役に立つ仕事を求めていたのだ。
「都立の看護専門学校へ行きたいと思いました。だけど倍率は高いし、高校時代、ろくに勉強していないからとても受かるとは思えなくて」
1年間、仕事をセーブして勉強を続けた。予備校に行けば要領がわかったのかもしれないが、そこに費用を出すのは気が引けたそうだ。
「結局、26歳のとき、社会人入試で受かりました。学費の貸与などもあったし、シェアハウスに引っ越して娘も寂しくなく過ごせたし、いいことずくめでしたね。私はとにかく勉強についていくのに必死でした。その姿を娘に見せられたのもよかったかもしれない」
無事に学校を卒業、国家試験にも受かって、彼女は30歳を前に看護師として働き始めた。娘が無事に大学を卒業したら、今度は彼女が看護の道を究めるために大学に行きたいのだという。ネグレクトという過酷な状況で育ったにもかかわらず、彼女はずっと前向きに、がむしゃらに生きてきた。
「すごく変な言い方ですが、私は自分の過去を振り返る時間がなかったんです。もし娘がいなかったら、もっと過去にとらわれて前向きになれなかったかもしれない。娘がいたから、娘を守りたかったからがんばってこられた。不思議な人生を送ってきたとは思うけど、今になって自分がきちんと親に育てられなかったことが看護師としては役だっているんですよ。人は誰でも、そして病気になった人は特に孤独感を抱いている。そこに寄り添いながらプロとして技術を提供していきたい。そう思っています」
客観的に見れば“不幸”な生い立ちだが、それに押し潰されることなくたくましく生きてきた彼女。その強さに裏打ちされた優しさが、彼女の看護師としての強みかもしれない。