事実は映画やドラマより偶然に満ちている
事実は小説より奇なり。ごく普通に生活している「ごく普通の人」ほど大きなドラマに遭遇していると、長年の取材を通じて実感している。もし、近所に昔の恋人、それも壮絶な恋愛をしたかつての愛しい人が越してきたら……。
若い日の壮絶な恋
若いころの恋愛は思い出すだけでちょっと和むようなほほえましいものが多い。ところが中には、もちろん壮絶な恋愛経験をしている人もいる。
アキミさん(43歳)は、5歳年上の男性と結婚して9年、なかなか子どもができなかったが「奇跡のように」妊娠、現在は5歳になるひとり娘がいる。
「結婚が遅かったのも、若い日の恋愛が忘れられなかったから。私の人生はあの恋で始まって、あの恋で終わっていたんです。だから結婚なんて考えられなかった。結婚したのは、夫が両親を一気になくした私を立ち直らせてくれたから。うちの夫、神様みたいな人なんです」
20代半ばの大恋愛、そして大失恋で彼女はしばらく立ち直れなかった。仕事もやめて家にひきこもって数年、両親に支えられて30歳になるころ、ようやく社会に復帰した。
「最初は週に1、3回のアルバイトから始めて、ようやく週に5日働けるようになったころ、両親が車のもらい事故にあったんです。父はその事故が原因で亡くなり、母は自分もケガの治療をしながら1年にわたって看病してきたことに疲弊して、父を追うように亡くなりました。半年の間に2度もお葬式を出したんです」
そんなとき、力になってくれたのが近くに住む5歳年上の従兄弟が連れてきた友人だった。子どものころ、彼も従兄弟と一緒にアキミさんと遊んだことがあるという。
「私はあまり記憶がなかったんですが、従兄弟が『いいヤツだよ』と。彼はバツイチで子どもはいません。両親を亡くして再び、家に籠もりがちになった私を心配して、彼はよく1時間もかけて訪ねてくれました」
彼の会社からアキミさんの家まで1時間、それから帰宅すると2時間近くかかるのに、会社帰りや週末に彼はまめにやってきた。そのたびにおいしいものを差し入れてくれたり、料理を作ってくれたり。
「少しずつ笑うことができるようになったのが2年ほどたったころでしょうか。彼のおかげです。彼が『何もいらない。一緒に住みたい』と言ってくれたので、両親の家を処分して彼のマンションに移り住みました」
ゆっくりと少しずつ、普通の生活ができるようになっていった。
あのころの恋人とばったり
その彼との生活はアキミさんの心を癒やしていった。彼が婚姻届をもって帰ってきたときはすんなりとサインした。自分が結婚するとは思っていなかったのでうれしかったという。「彼は子どもをほしがっていましたね。私は、自分がほしいのかほしくないのかわからなかった。心のどこかでできないんじゃないかとも思っていました」
できないと思っていた理由は、20代半ばの大恋愛にある。当時、彼女は大学時代の後輩のミツルさんとつきあっていた。
「3歳年下でモテる男だったんですよね。つきあっているのに私は社会人で、彼は学生だから時間帯も違うし、なかなか会えなくて嫉妬ばかりしてた。彼と旅行したときも、大げんかになって私、『死んでやる』って騒いで本当に崖から落ちたりして。奇跡的にケガはなかったんですが、彼、私とつきあうことにだんだん疲れていったみたい。私は、本当に好きで好きでたまらなくて、相手の気持ちを考える余裕もなかった」
そして彼は就職、社会人2年目にして遠いアフリカの地に駐在することになった。彼も不安だったのだろうか、ついてきてほしいと言った。
「それまでまったく私の思い通りにならなかった彼が、初めて私に弱みを見せた。というか本心を言ってくれた。そう思ったんです。もちろん私は結婚を承諾しました。ところがそこで彼の両親が大反対。結婚は帰ってきてからにしろって。彼もなぜか両親の意向に従うよと。婚姻届だけでも出しておきたかった。そうすれば私も彼の元へ行けるし。でも彼は頑なに拒否しました」
そこでケンカ別れのようになり、彼はアフリカへ。そして彼女は自分が妊娠していることを知った。彼の連絡先はわかっている。だが通信環境がよくないため電話はなかなかつながらない。今のように簡単にネットがつながることもなかった。
「手紙を書こうとしました。でも彼は私のことなどもう本気で好きじゃないかもしれない。そう思うと書けなくて。結局、私、流産してしまったんです」
その予後があまりよくなくて、子どもはできづらいかもしれないと医者に言われた。その後、彼が帰ってきたと風の噂に聞いたが、彼女は連絡しなかった。だがもちろん、彼のことが嫌いになったわけではない。
そして結婚して8年たった昨年、アキミさんは最寄り駅でばったりミツルさんに遭遇したのだ。
「アキミ、という声がして。私、ときどきミツルの声が聞こえることがあるので、また幻聴かと思ったんです。そうしたらミツルが目の前に立ってて。つい最近、駅の近くのマンションに越してきたんだそうです」
それから何度か偶然に会い、何度かカフェで話した。彼は当時、親に反対されたとき、アキミさんをアフリカに連れていくのは自分のエゴだと気づいたのだという。自分は現地で仕事があるからいい、だが何もすることのない妻は非常につらいだろう、と。帰国してから何度も連絡しようと思ったが、今さら自分の出る幕はないと思っていたのだという。
「当時の彼の気持ちを知って、体中の力が抜けました。それならどうして待っていてほしいと言ってくれなかったのか、どうして私が待っていると言えなかったのか。でも彼もすでに家庭のある身。私は大事な夫とかけがえのない娘がいる身。今さら取り返せないんですよね、あの日々は」
一度、夫と娘と3人で週末、スーパーに行ったら、彼の一家も来ていてばったり会ったことがある。妻はきれいな人だった。あそこにいたのは自分かもしれないと思ったら、彼女はめまいがしてよろけた。腕をとって「大丈夫?」と声をかけてくれたのはもちろん夫だった。
「この人を大事にしなければと改めて思いました。でも彼への思いが消せるわけでもない。彼からは、また会いたいとメッセージが来ます。この先、自分が平穏な気持ちで生活していけるかどうかが不安なんです」
彼女が流産したことを、ミツルさんはまだ知らない。それを話したらどうなるのかとアキミさんは言った。
自覚しているよりずっと、アキミさんはミツルさんのことを深く思っているのかもしれない。日常生活から目を逸らさず、自分の心の深いところを見て見ぬふりができるかどうかにかかっているのではないだろうか。