女性リーダーの代表 ドイツのメルケル首相(Copyright Armin Linnartz)
「うま味」を感じている人が仕組みを守ろうとする
世の中には様々な仕組みがある。いい仕組みもあれば悪い仕組みもあるが、悪い仕組みと分かっていながらなかなか変わらないものがある。その仕組みから「うま味」を得ている人間が守ろうとするからだ。既存の仕組みは男性の論理で作られたものが多いため、男性がうま味を手放そうとせず、現状維持に陥りやすい。
政治の世界で悪いとわかっていることが一向に改善されないのもそれが理由だ。
野党時代に自民党のやり方を散々批判していた旧民主党が、いざ自分が政権を取ると、改善するどころか全く同じことをして国民を失望させたことは記憶に新しい。
都知事選で露呈した男性社会の弊害
そんな男性社会の弊害が都知事選にも噴出した。ご存じの通り、自民党は組織が推薦した増田寛也氏と独自で立候補した小池百合子氏との間の分裂選挙になった。
その際、自民都連は増田氏以外(事実上小池氏を指す)を応援した者は家族も含めて懲罰にかけるという通達を出した。その内容に誰もが首を傾げる中、石原慎太郎元都知事が小池氏を女性として侮辱する発言を行った。
ところが、関係者の誰一人としてたしなめないばかりか、組織として問題視することもなかった。
悪い仕組みを最も壊せるのは女性リーダー
あの一件は選挙戦の流れを変えた出来事としては報道されたが、うま味の中にいる男性はなかなか自浄作用を発揮することはできないという、男性社会の弊害という視点では報じられなかった。それも、マスコミもまた男性の論理で支配されているからかもしれない。
そうした男性社会の弊害を変えられるのはその「うま味の外にいる人」つまり「女性」ということになる。
男性は正しさより序列を気にする
男性は序列や勝ち負けにこだわる傾向がある。男性ホルモンのテストステロンの影響もあることが医学的にはわかっているが、それだけではない。いったんそうした社会となってしまうと、そこで生まれ育った子どもがその状況を当然と認識し、あたかも文化的伝統であるかのように錯覚し、その傾向を強固にしてしまうからだ。
女性の作る社会は対話型
一方、女性の作る社会は相互の理解を求める傾向がある。人間関係において、悩みのある相手に対し、男性は(頼まれもしないのに)一方的に自分の意見を押しつけるのに対し、女性は相手の話をまず聞く。
自分が話す側の場合も同じだ。
男性は一方的で、その内容のほとんどが自慢話に終始するのに対し、女性は自分の話を理解してもらいたいと考えながらもできるだけ相手との接点のある話をしようとする。
そうした傾向は前出の都知事選の演説にも現れていた。一方的にしゃべる男性候補者に対し、小池氏は場所や相手で演説の内容を変え、相手が興味を持ちやすい話をしていた。
女性の比率が3分の1を越えると劇的変化が起きる。
ハーバード・ビジネススクールのロザベス・モス・カンター教授が77年の論文で下記のように示した。「集団の中で女性の割合が3分の1を越えると、互いに連携して集団全体の文化を変えることもできる」(Newsweek 2016.8.9版より引用)
また、女性のほうが男性よりも互いに協力することを柔軟に受け入れることもわかっている。
このことから言えるのは、傑出した女性リーダーがいても一人だけでは社会や組織を変えることが難しく、一緒に推進する女性の仲間が必要ということだ。東京都議会ならば、小池都知事と意見を同じくする女性議員の増加が必要ということになる。
女性だからという「差別」と、
女性だからという「逆差別」
男性の作った悪い仕組みを改善していくことが女性リーダーにはおおむね得手と言えるが、女性である点ばかりに目を奪われるあまり、木を見て森を見ない的にアテが外れることもある。例えばイギリスのサッチャー元首相だが、彼女は男性政治家さえ青ざめるほどの強硬派で、一切の妥協を受け入れず、敵と見なした相手は容赦なく叩く恐ろしい政治家として怖れられた。彼女はフォークランドへ軍事攻撃したことでも知られている。
また、アメリカ民主党の大統領候補に指名されたヒラリー・クリントン氏も、別の意味で一歩離れて見る必要がある。
ヒラリー氏は世論調査でも不人気が目立つが、その理由は次のように考えるとわかりやすい。
「もしヒラリーが女性ではなく男性だったとしたら、今も同じように大統領候補の政治家として支持されているだろうか?」
メルケル首相、メイ首相がリーダーとなったのは女性であるからではなくその政治手腕への評価によるものだが、ヒラリー氏には常に「女性初」という修飾語がつきまとい、政治手腕を評価する声はほとんど聞かれない。それどころか、アメリカ初の女性大統領にするため手腕の足りなさには少々目をつぶろうという雰囲気すらある。
もし女性大統領を生むこと自体が目的化しているとしたら本末転倒で、いわば「逆差別」のそしりは免れないだろう。
よって日本においても「あくまで本人の能力を正しく評価する」という意識を持った上で、男性社会の弊害を打ち破れるような女性リーダーを生む努力がなされるべきだろう。