対照的なふたりが、野球殿堂入りを果たす
殿堂入りの対象となるのは、メジャーで10年以上プレーし、引退後5年以上が経過した選手。全米野球記者協会(BBWAA)の適性審査委員会が候補者を選び、BBWAAに10年以上所属している記者による投票で、75%以上の得票が条件となる。
今回は32人がノミネートされ、初候補となったグリフィー氏と4度目の挑戦となったピアザ氏が選ばれた。グリフィー氏の獲得得票は99.3%で、1992年にトム・シーバー氏が得た98.84%を上回る史上最多得票となった。ピアザ氏の得票は83%。なお、次点は、ジェフ・バグウェルの71.6%で、メジャー歴代2位となる通算601セーブ記録を持つトレバー・ホフマンは67.3%、メジャー歴代最多本塁打記録を待つバリー・ボンズは44.3%、“ロケット”の愛称で知られるロジャー・クレメンスは45.2%でいずれも落選した。
実績、人気ともに申し分ないのは、マリナーズ、レッズなどで活躍したグリフィー氏で、「(史上最多得票は)衝撃的だし、こんなに獲得できるとは。最高の栄誉だ」と資格1年目での殿堂入りを喜んだ。
走攻守三拍子揃ったオールラウンドプレーヤーで、本塁打王4度、ゴールドグラブ賞10度獲得し、オールスター戦に13度選ばれた。1989年にマ軍でデビューし、1990年には父ケン・グリフィーとメジャー史上初の現役親子選手として出場、連続本塁打も記録した。マ軍の本拠地セーフコ・フィールドは「グリフィーが建てた家」とも呼ばれている。
一方、資格4年目で殿堂入りを果たしたピアザ氏は、ドジャース、メッツなどでプレーし、守備力は高くなかったが、豪快な打撃で捕手として歴代最多の396本塁打(通算427本)をマーク。ドラフトで全米イの一番で指名されたグリフィー氏とは対照的に、ピアザ氏は1988年の62巡目、全体の1390番指名でド軍に入団。そこから12度の球宴出場を果たした。最も低い指名順での殿堂入りとなったピアザ氏は、「この喜びは表現できない。現役時代は泥にまみれながら多くのボールを受け止めてきたが、それが実った」と“らしい”コメントをした。
実はこの2人、日本人メジャーリーガーのパイオニアである2選手と大きく関わっている。
日本人メジャーリーガーとも深い関わりがある両選手
グリフィー氏は選手としてそのピークが過ぎた晩年にマ軍に出戻った(2009年)が、当時低迷したチームの中で、「個人主義に走っている」と浮いた存在になりかけていたイチローを救った。イチローの野球に対して真摯に取り組む姿勢を理解したグリフィー氏は、イチローがチームで孤立しないように、他選手に働きかけたり、常に冗談や悪戯をしかけてチームに溶け込ませようとしたりして、気分良くフィールドに立たせるムード作りを演出した。イチロー自身もこんなグリフィー氏をリスペクトし、「選手を超越していて、人間ケン・グリフィー・ジュニアは僕の中で偉大な存在だった」と言って憚らない。ピアザ氏は野茂英雄が1995年にド軍でデビューした時の正捕手だった。当時、メジャーでは日本人選手の評価はゼロで、どちらかと言えば懐疑的に見られていた。ピアザ氏は「日本人だから」という固定観念を一切持たずに野茂に接し、通訳を通じて積極的にコミュニケーションを取り、伝家の宝刀であるフォークボールをうまく引き出すリードをした。野茂がピアザ氏のサインにほとんどクビを振ることはなかった。また、4番バッターとして野茂の勝利を何度も援護している。
イチローと野茂の“恩人”でもあるグリフィー氏とピアザ氏の殿堂入りは、日本人としても拍手を送りたい。