居場所がない、価値のない自分
転職先の仕事は好きだが、同僚や先輩とはなじめず、居場所がない。
「歓迎会のとき、ふと前の会社名を漏らしてしまったんですよね。『どうしてそんな大きな会社を辞めたの?』と聞かれて、『まあ、いろいろあって』と答えたら、どうやらいろいろな噂が一人歩きしてしまったようで。僕が人妻と不倫をしていたとか、つきあっている彼女に暴力を振るったとか、適当な話をでっちあげられたみたい」
仕事は楽しかった。一生懸命やると成果が出る。その成果を周りが一緒に喜んでくれないことに気づいた。
「だから意地になって仕事をして。上司にはかわいがってもらっていますが、同僚や先輩とはうまくいってない。居場所がない感じです」
それでも社内には、声をかけてくれる女性がいる。彼も彼女のことが気になっているのだが、誘えない。
「まだ婚約破棄の傷が癒えないんです。この女性も、実は上司とデキていたりするのかもしれないという目で見てしまう。それに、もう40歳目前。今さら女性に『つきあってください』なんて恥ずかしくて言えないでしょう……」
好きになったら、誘ってみればいい。なぜそこで年齢が出てくるのか、わからなかった。
「40歳になればもうマイホームももって、子どももふたりいたはずなんです。僕は計画通りに人生を送ることができなかった。それは敗者ということ。今さら恋愛もないもんだと、頭の中で冷静な自分が言うんです」
母親が敗者というレッテルを貼った?
母の計画通りにできなかった自分は無価値。母は、初孫を溺愛しているそう。
母親が、彼に敗者というレッテルを貼ったのだろうか。
「レッテルを貼ったというよりは、母の価値観で僕自身も生きてきてしまったんでしょうね。でもそれはすり込まれているから、自分で自分の価値を見いだすことができない。自分に価値があるとも思えないし。母は今は、姉の息子に夢中です。おそらく受験だなんだと口を出すんでしょうね」
大人になったら、自分で自分を認めるしかないのではないか。価値があるかないかはどうでもいい。生きている自分を無条件で認める。それができるのは自分だけだと知ることが大事なのではないだろうか。
思い通りの人生が歩めなかった、と人生半ばで気づいたとき、人はどうすればいいのだろう。それまでの価値観を捨て去り、自分自身の価値観を築いていくチャンスととらえることはできないだろうか。
人はいつだってゼロに立ち戻り、ゼロから蓄積することができると信じたいが、それは甘い考えなのだろうか。