「叩かなければわからない」は思い込み

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「叩いてでも教える」というしつけの方針は正しいのか?

こんな話を聞いたことがあります。ある男性が子どものころ、親に無理矢理石油ストーブの熱いところに手を押し付けられたということでした。「石油ストーブは熱い、触ると火傷をする」ということを教えるためだとその親は冷静に話したそうです。そして今でも「その教育は間違っていなかった。感謝しなさい」と言っているということです。私は石油ストーブに手を押し付けられた経験はありません。しかし石油ストーブに手を付ければ火傷をするということは知っています。私だけではないでしょう。石油ストーブの危険性を教えるために実際に無理矢理手を押し付けるというのはどう考えても非合理的です。

「叩かなければわからないことがある」というのも同じではないでしょうか。「叩かなければわからないこと」とは、具体的にはどんなことでしょうか。私には思いつきません。試しに聞いてみたいものです。「叩かなければわからないことがある」と言う人に、たとえばどんなことなのかをヒアリングして、リストにして、大勢の人に見てもらいます。「ああ、そうそう、これって叩かれないとわからないんだよね」とみんな共感するでしょうか。そんなことはないでしょう。大半の人は叩かれなくても理解したことばかりのリストができあがるはずです。「叩かなければわからないこと」というのは単なる思い込みであるケースがほとんどではないかと思います。


「叩くしかない」のは叩く側の事情

「叩かなければわからないこと」はないとしても、つい叩いてしまうことがあることは理解できます(もちろん私にも、ついカッとなって子どもを叩いてしまった経験はたくさんあります)。でもそれは合理的な判断によって叩いているのではなくて、ついかっとなって叩いているだけですよね。そのことは叩いた本人も自覚しているはずです。もしくは、似たような状況ですが、とっても大切なことを伝えたいと思って、叩く以外の方法が思いつかないということもあるのかもしれません。でもそれって、幼児が、自分のほしいおもちゃを貸してもらいたいのに言葉でどう伝えたらいいのかわからなくて、つい叩いちゃうのとまったく同じだと思います。いずれにしても、一種の思考停止状態、パニック状態がもたらした蛮行です。ついやってしまうことがあることに同情はできても、正当化することはできません。

「あの状況では叩く以外に手段はなかった」というのは大抵、叩かれた側の問題ではなく、叩く側の事情です。言葉を失い、叩くという方法しか思いつかないのは、その人の叱る能力の限界を示しているにすぎません。人間の器としてもっとキャパがあれば、叩く以外の方法を選択することだってできたはずなのです。そう言うと、「子どもは口で言ってもわからない」という反論もあるかもしれません。たしかに何度いってもわかってもらえないことはたくさんあります。しかしだからといって叩けばわかってもらえるという保証はどこにもありません。しかも次のような場合はどうすればいいでしょうか。たとえば子どもが取っ組み合いのケンカをしてお互いに怪我をしたとします。一歩間違えば大怪我だったかもしれません。そこで大人が、「お前たちは叩かれないとわからないのか!」と子どもたちをひっぱたいたとします。そのとき「はい、だから取っ組み合いをしていました」と言われたら、大人としてはどうやって正しい道を示すことができるでしょうか。矛盾は明らかです。

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