前時代的な指導や練習法が、選手の心の離反を生んだ
3年前から悪化した右ヒザ痛により体力の限界に達したことも理由に挙げたが、何と言っても選手との間に生まれた溝を埋められなかったことが最大要因だろう。
開幕から53試合を消化して20勝33敗でパ・リーグ最下位に低迷。浮上の兆しも見えないことからその責任を取った形に、伊原監督は「優勝すると宣言したにも関わらず、ここまでライオンズファンの期待を裏切って、最下位をずっと走ってきた。監督がひけば、いい風が吹く」とよく通る大きな声で決意を語った。「(球場の)階段を上り下りするのがつらくなった。選手に弱みを見せるところもあった」と、3年前から悪化した右ヒザ痛により体力の限界に達したことも理由に挙げたが、何と言っても選手との間に生まれた溝を埋められなかったことが最大要因だろう。
1987年の日本シリーズで、巨人・クロマティの緩慢守備に付け入って、単打で一走(辻)が生還した“伝説の走塁”の発案などで知られ、2002年には監督就任1年目でリーグ優勝に導いた功労者。その手腕を買われ、5年間遠ざかっていた優勝の2文字の奪回を託され、11年ぶりに監督復帰した。しかしながら、11年前と同じように“鬼軍曹”を貫いたところに悲劇が待っていた。
今春キャンプ、「地に足を付けて土台をつくる」と宣言した通り、前半は午前、午後の“2部制”でランニングを実施し、走り込みを徹底させた。シートノックが初めて行われたのが2月15日、紅白戦はわずか1試合だけだった。実戦練習の少なさが、開幕から貧打が続いた要因のひとつかもしれない。また、ひげや茶髪の禁止、門限も午後10時に設定、ユニホームの裾も伸ばすのではなく、ストッキングを上げるクラシックスタイルを徹底させた。「息子と娘は選手と同年代。現代の選手もわかっているつもり。ギャップなどなかったと思う」というが、自主性を重んじて伸び伸びプレーさせた渡辺前監督とは180度違う前時代的な指導や練習法が、選手の心の離反を生んでしまったことも否めない。
田辺監督代行は、初采配となった6日の巨人戦(東京ドーム)試合前、「若い選手が委縮しないで若さを前面に出して、元気よくプレーさせたい」と宣言。その試合は延長十回で3対4のサヨナラ負けを食らったが、翌7日の巨人戦は3対1と快勝し、初白星をものにした。確かにムードは明るくなったかもしれないが、西武が本来の強さを取り戻すためには、伊原監督の指導法、練習法、采配等の全てを否定するのではなく、選手それぞれが反省するところは反省し、チームが勝つためには何が足りないかを補っていかなければならないだろう。
西武球団初となるシーズン途中での監督降板劇で、選手たちは、名門復活のためにも、ひと回り大きく成長してもらいたい。