看護観をリセット
千葉県出身のMさんは、中学生のころから看護職に興味を持っていました。高校を選ぶ時も、なんとなく3年間を送るのが嫌で看護科に進学。その後短大看護科に進むと、実習先で出会った保健師の働きぶりを見て、「病院の枠を超えて働く看護職もあるんだ」と大きな関心を持ちました。そして保健師学校へと進んだ後、臨床経験を積むために看護師として就職。およそ2年間頑張ったところでひとつの決断をしています。
留学当時のスケジュール表
普通ならここで看護大学に入るはず。しかし、Mさんは以前から興味を持っていた農業大学に進み、1年間と決めて学生生活を謳歌。
帰国後、Mさんが選んだ就職先は、新潟県の小さな離島。少なくとも英語を使う機会はなさそうな場所です。しかし、またいつか海外に出ようと思っていたMさんにとって、ここで働くことはとても大きな意味を持っていました。
というのも、外国の大学の恩師が、「日本に帰るのなら、日本の一番小さなところ、原点を見てくることが大切だ。それを知っていないと再び海外に出たときに通用しないよ」と話してくれたことが強く残っていたからです。
人口400人台の離島に飛び込んだMさんは、特定健診・特定保健指導の立ち上げにかかわり、たったひとりの保健師としてすべての事業を担当する多忙な毎日を送りました。最初の3ヵ月で体重が10キログラムも減ったというから、相当なストレスがあったに違いありません。それでも弱音を吐かず、島のためにと懸命に頑張り続ける姿がとても眩しく見えました。
青年海外協力隊で中東へ
英語が好きで、子どものころから海外で看護の仕事をしたいと考えていた岐阜県のMさんが興味を持っていたのはJICA(海外青年協力隊)でした。いつか自分も、と思いながら大学の看護学部に入ると、海外で働くためには地域での活動を覚える必要があるとの理由から、地域看護学の勉強に身が入りました。ただ、この時点では保健師になりたいとの気持ちはあまりなかったといいます。卒業後は協力隊への参加を有利に進めるため、看護師として働き経験を積み、2年目から看護師枠での応募を続けていたものの、倍率が高くなかなか採用されない。そこで次は保健師として応募し、派遣希望国もどこでも構わないと条件を緩和すると、見事に合格。
派遣先として提示されたのは中東の国。思いがけない地に躊躇したものの、思ったより情勢は悪くないとの情報を得て決断。語学や現地での生活トレーニングの研修を国内で受け旅立ちました。
派遣先で見たものは、見渡す限りの砂漠と土造りの家。片寄った栄養、宗教上の制約など日本では考えられない環境のなかで、健康教室や食事の改善指導などに従事。お世辞にも治安は良いと言えなかったものの、次第に現地に仲の良い友人もでき馴染んでいくことができました。
活動は約2年。日本に戻ってくると臨時の看護師をしながら就職活動を行い、近隣の町で保健師として採用されたのが半年後。環境は違うものの、地域に暮らす外国人のお母さんたちとの交流に興味を持ち、誰もが暮らしやすい地域にしようと頑張っています。
海外から離島、そして教員へ
沖縄の小さな島の、ひとり保健師として精力的に活動していたCさんを知ったのは、今から5年ほど前のこと。とても大人しい感じなのに、保健師として強い信念を持って活動していること。沖縄以外の土地から飛び込んできたのに、島の人にとても信頼されていることから、すごい人だなと思っていました。やがて保健師をしながら本島の大学院(通信制)に通い出したCさん。後に島の保健師は辞めたものの、今度は大学の助手として地域看護を教える立場になっていました。
とくに専門としているのは、自身がかかわってきた島しょ保健看護分野で、離島を多く抱える沖縄の保健師教育に、自身の経験をたっぷり詰め込みながらかかわっています。こんな先生に教えてもらえるなんて、素晴らしいことだなと思います。