いくらカラオケが好きだからと言って、10歳から欠かさず練習し続け、50日歌い明かし、40日連続で歌って夜遊びするなんて、尋常のパワーでなせる業ではありません
後白河上皇の超破天荒生活
後白河上皇は、大治2年(1127年)、鳥羽天皇と中宮、藤原璋子の第4皇子としてお生まれになりました。白河法皇が亡くなられた後、鳥羽天皇は璋子を遠ざけ、新たな妃である藤原得子を寵愛します。彼は、母親側からのプッシュも見込めない第4皇子でした。そのため、お若いころには、皇位継承とは無縁のハチャメチャ生活を送っていた、と記述が残っています。身分の上下にかかわらず、果ては遊女までお屋敷に招き入れ、遊興に明け暮れる日々だったそうです。父親である鳥羽天皇からは、「即位の御器量にはあらずと思召す」(愚管抄)との記述が残る程です。しかし、この常識にとらわれない型破りな振る舞いも、織田信長同様、片頭痛脳のなせる技だったのかもしれません。歌で3回のどを潰し、40日連続夜遊びする片頭痛脳パワー
後白河上皇は、庶民に流行した“今様”という、当時の流行歌にハマりにハマられました。「梁塵秘抄」から、その爆裂エピソードをご紹介しましょう。
「10歳余りの時から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い暮らした。声が出なくなった事は3回あり、そのうち2回はのどが腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。待賢門院が亡くなって50日を過ぎた頃、崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので、前と同じように毎夜歌った。鳥羽殿にいたころは50日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて40日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」
なんという底なしの執着パワー!!! 好きなものは骨まで愛す。興奮性の高い片頭痛脳の妥協を知らないこだわりが見てとれる、仰天エピソードです。
後白河上皇と熊野詣(もうで)
生涯34回も熊野詣をした天皇は、後にも先にも後白河上皇しかいません
「ハマる」「こだわる」「ひらめく」片頭痛脳
しかし、特記すべきは、後白河上皇が熊野詣に訪れた回数です。歴代天皇の中でもぶっちぎりの第1位! 現代よりはるかに遠く離れた熊野まで、なんと34回!!! も詣でているのです。回数もさることながら、後白河上皇の熱狂ぶりはケタ外れです。後白河上皇は、いっそ熊野が京都にあればいいと考え、新熊野神社をお建てになります。その際使われた木材などは、労苦をいとわず熊野から調達するほどのこだわりようでした。片頭痛脳の持ち主は、何事にもハマると際限ないパワーを発揮します。これも「ハマる」「こだわる」「ひらめく」片頭痛脳の片りんがうかがえるエピソードでしょう。「日本国一の大天狗」と呼ばれた超頭脳実力派法皇
後白河上皇は、天才的ひらめきと完璧な策略で、日本国一の大天狗と呼ばれました
幽閉され政治の表舞台から追放されても、そのピンチを見事に切り抜ける大胆さ。平氏政権樹立の影の立役者であると同時に、平家打倒の策略をめぐらせる狡猾さ。また、源氏の台頭を促したかと思えば、義経に頼朝追討の令を下す冷徹さ。それらすべてを兼ね備え、絶えず勝者を見極め、利用できなくなれば切り捨て、しがらみに囚われることがない策略の数々によって、長期政権を握った超頭脳実力派法皇。これが源頼朝に「日本国一の大天狗」と言わしめた、天才後白河上皇の真のお姿でしょう。
後白河上皇は、時代劇ではクセのある人物として描かれることが多いようです。しかし、彼こそ人の10手先まで未来が読める天才型片頭痛の才能をいかんなく発揮し、日本史上最も活躍した片頭痛脳の持ち主といえるでしょう。