命をかけた格闘技だった、相撲
相撲の歴史を紐解くと、「日本書紀」に、第11代垂仁天皇の御前で野見宿弥(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が相撲日本一を争い、野見宿弥が当麻蹶速の肋骨を蹴り折り、さらに腰の骨を折って絶命させたという記述があります。当時の相撲は命をかけた男の格闘技であり、武術でもあったのです。800年の歴史をもつ相撲の司家である吉田司家の故実にも、726年(神亀3年)の禁じ手制定以前について「相撲の古法は突く、殴る、蹴るの三手なり」とあり、明らかに命のやりとりをかけた武術であったことがわかります。
戦国時代に入ると、戦国大名は武術としての相撲を奨励するようになりました。当時の合戦は、堅固な甲冑を身に纏って戦いますので、最後は短刀をもっての格闘になります。この時に、相撲の技がものをいうのです。
戦国大名のなかでも、大変な相撲好きが織田信長です。信長の公式記録である「信長公記」には、信長が開催した相撲大会の記事が何度も出てきます。
信長は、相撲大会で活躍した力士たちには、太刀を与え、家臣に取り立てたうえ、相撲奉行に任命しています。また、信長の重臣たちも、それぞれ自慢の力士たちを相撲大会に出場させていますので、織田家では上下をあげて相撲を振興していたようです。
そして、相撲で信長に仕えた力士の中には、本能寺の変で、最後まで信長に従い、殉じたものも多くいたようです。
ちなみに、力士が四股名を名乗るようになったのも戦国時代とされていて、力士が武士であるという由縁もここに求めることができます。