「おしん横綱」誕生までの歴史
「いっぱい食べて、いっぱい稽古する」というのが、力士が強くなる条件です。ですから力士は入門すると同時に、大相撲で戦える身体づくりに励みます。入門当時と比べて、身体が大きくなるのはこうした努力があるからです。しかし、第59代横綱・隆の里は、幕下時代から、持病の糖尿病のために「いっぱい食べて、いっぱい稽古する」ことができませんでした。
それというのも未成年の時代から酒好きで、稽古を抜け出して一気飲み、稽古後にビールを3本、ちゃんこと一緒にウイスキーを暴飲という生活を続けていたために、それがたたってしまったのです。
ここから、隆の里は、酒を絶って稽古の鬼になります。糖尿病を公表し、食事メニューを改善、民間療法などを積極的に試し、そして、稽古量を増やすことで、病気と向かい合いました。部屋の行事や後援会のパーティなどでも、酒を断り続けました。
そんな姿を見ていたのでしょうか、同期の若三杉(後の横綱2代目若乃花)は、成績の伸びない隆の里を、マスコミから失笑されても「ライバルは隆の里です」と答え続けたといいます。
隆の里は、昭和57年1月場所に、当時最もスローな82場所で大関に昇進しました。そして、翌年の7月場所で、2度目の優勝を果たし、横綱に昇進します。糖尿病に苦しみながら、時間をかけて横綱に上り詰めた姿から、マスコミは当時の人気ドラマ『おしん』になぞらえ「おしん横綱誕生」とその昇進を伝えました。
隆の里の印象に残る一番
隆の里は、最強横綱のひとりに数えられる千代の富士の絶対的キラーとして知られていました。昭和56年9月場所では、横綱に昇進したばかりの、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった千代の富士と2日目に対戦します。互いにがっぷり四つ、土俵中央で胸が合うと、隆の里が強烈な上手投げで一瞬のうちに千代の富士を横転させてしまいました。
この一番で、千代の富士は場所前から痛めていた足首を負傷し、翌日から休場を余儀なくされ、「何をしても隆の里にはよまれている」と嘆くほどだったといいます。