左手一本で名を馳せた横綱 輪島

名門、日本大学相撲部出身で「蔵前の星」「黄金の左」と称された第54代横綱輪島。かつて大相撲で、良きにつけ悪しきにつけ、これほど型破りの男がいたでしょうか? しかし、左下手一本で、自分より大柄の対戦相手をねじ伏せる相撲が、大好きでした。

学生横綱だった輪島は、入門後もちゃんこ番などの雑務を免除され、幕下を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で十両入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たします。

1972年9月場所では千秋楽に貴ノ花との水入りの大相撲を制して、大関に昇進。そして、大関になって4場所目の1973年5月場所を全勝優勝で飾り、初土俵からわずか3年半というスピードで横綱に登りつめました。

横綱に昇進すると、北の湖にその牙城を脅かされつつも、数々の熱戦を演じるようになります。

しかし、1974年には腰痛を起こして3場所連続休場し「輪島はもう終わった」と揶揄されますが、1976年~77年には、強烈な下手投げに磨きをかけ、5場所の優勝を飾り、見事に復活を遂げました。こうして、北の湖との「輪湖時代」を築きます。

1979年~1980年は、体力の衰えをいぶし銀の上手さと、気力で補い、千代の富士ら実力派の若手を向こうに回し一歩も後に引かず、2度の優勝を飾り、輪島健在ぶりを見せつけました。

そして、1981年3月場所中に引退し、花籠部屋を引き継ぎます。しかし、妻の自殺未遂、年寄名跡を実姉の経営する料亭の借金の担保にするなど、トラブルを引き起こし、廃業してしまいます。

さらに、輪島を陰で支えた師匠の妻の自殺という悲劇を生んでしまいました。この後、輪島はジャイアント馬場に弟子入りして、プロレスリングの世界に飛び込みます。

印象に残る相撲

輪島の一番印象に残る相撲は、1974年、7月場所、輪島に1差をつけて千秋楽を迎えた北の湖との二番。北の湖の圧倒的有利の下馬評の中で、輪島は結びの一番、優勝決定戦と立て続けに北の湖を得意の左下手投げで降しました。まさに「黄金の左」を見せつけた取り組みでした。


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