恵まれた体格、才能を活かしきれなかった不運の横綱
現在の大相撲の規定では、横綱に降格はありません。そこで、横綱には品格と力量の双方が備わっていることが求められると思います。この品格を著しく汚した横綱の代表が、第60代横綱、双葉黒。しかし私は、双羽黒が親方とトラブルの末、引退してから、かえってこの力士が好きになりました。
双葉黒は、中学卒業とともに角界に入門、1984年9月場所に21歳で入幕を果たし、3場所目に三役、9場所目の1986年初場所に大関となりました。大関昇進までの8場所中、5場所は2桁勝利をおさめるという抜群の成績を残しました。
身長199cmの卓越した体格と、100mを11秒台で走るという抜群の運動神経は、大相撲の取組でも大いに発揮されました。特に、長身を生かし、上から圧力をかける鯖折りによって、あの小錦の右膝を負傷させるなど、爆発的なパワーがありました。
大関昇進後も4場所連続で2桁勝利をあげます。3場所目では準優勝、4場所目で優勝決定戦に進出。そして、優勝経験がないまま、1986年秋場所に22歳で横綱に昇進し「双羽黒」と改名しました。
この昇進は、もうひとりの横綱がどうしても欲しい日本相撲協会が無理に双羽黒を横綱にしたとも言われています。
横綱昇進後は、休場をはさみながら、合計3場所(1986年11月・1987年1・11月)で千秋楽まで優勝争いに絡んだものの、その全てで最後は千代の富士に屈し、ついに幕内優勝は果たせませんでした。
そして、その場所後に事件はおきます。師匠の立浪親方ともめた末、女将さんにけがを負わせ、部屋を飛び出したのです。その間に親方が日本相撲協会に廃業届を提出、双葉黒は24歳の若さで大相撲を去りました。
この事件の裏には、双羽黒の収入を立浪親方が横領するなど、積りに積もった確執があったとされています。マスコミによって報道された双羽黒の悪行とされる行動の多くは、親方サイドの一方的なリークでした。
印象に残る一番
そんな、双羽黒の印象に残る一番は、現役最後の相撲となってしまった、昭和62年九州場所の千秋楽の優勝をかけた対千代の富士戦です。ほぼ互角の対戦成績ながら、ほとんど抵抗を見せずに千代の富士に敗れます。端正な顔立ちに浮かぶどこかさびしげな表情が、頭の隅に焼きついて離れません。この時もう、双羽黒は、戦う気力を保てなかったのでしょうか。