エェッ!あのピート・モンドリアンが。。
最初のコーナーは、岡本太郎さんのパリ留学時代・1930年代だ。
東京美術学校卒の漫画家・父:岡本一平、歌人で小説家・母:かの子さんに同行して向かったパリ。父の同級生であり、画家:藤田嗣治の強い勧めで(東京美術学校を半年で中退し)パリに留学。18歳から10年あまりの滞在になるが、その間のちに20世紀美術界を代表する巨匠ともなる芸術家たちと交流を深めることになる。
左が岡本太郎:コントルボアン、右端がピート・モンドリアン:コンポジションD |
ボクが興味深いなぁ。。と思ったことは、この当時、1930年代といえばドイツのバウハウスやオランダのデ・ステイルなど20世紀近代芸術やデザインの金字塔時代・・・リアルタイムに岡本太郎さんがソコ(ヨーロッパ)にいたこと。そして、その当時の芸術家と出会っていたこと。
20代という若くて多感な画学生にとって、それこそ『爆発!』の連続、大変貴重な経験になったことは言うまでもない。
ボクの大好きなオランダの家具デザイナー:リート・フェルトとデ・ステイルで活動したピート・モンドリアンの抽象絵画の前では、「あぁ~、モンドリアンさんにも出会って、芸術論をかわしたのだろうなぁ。。。なんて、羨ましい!」
中国戦線から世田谷時代へ
次のコーナーでは、中国戦線での従軍時代。
1940年、ナチの侵攻を目前に帰国。母の急逝、二等兵で中国戦地へ。四年半近くの軍隊・捕虜生活の末、復員。東京・青山の自宅は、空襲で全て灰に・・・父:一平の消息も分からなかったという。
そして、世田谷・上野毛に居を移し、画家:岡本太郎の世田谷時代がはじまる。
(写真をクリックすると会場風景が拡大されます。)
岡本太郎さんは、『対極主義』という独自の芸術論を提唱し、カラフルで個性的、アバンギャルドな絵画を発表し続けた。戦後派の文学者とも交流を深め、精力的な活動をおこなった時代だ。それを物語るかのように、当時の文学者や芸術家と交わされた大量の手紙、葉書、出版物が、この時代の代表作のひとつ『森の掟』と共に展示されている。 それにしても、野間宏氏の岡本太郎さん宛の興味深い手紙などが驚く程展示されている。 『岡本太郎さんは全ての手紙などをとっておいたのです。激怒のあまり破いてしまった手紙も丁寧に封筒にいれていました。大量のモノがダンボールに何箱も』と、語る学芸員:野田さん。 平面の絵画から立体造形を手がけるようになるのもこの時代だ。 パリ留学時に学んだ民俗学がベースにあったのだろう、『縄文土器論』を唱え、縄文の土器・土偶的力強い造形作品を生み出す。同じ時期に鎌倉の魯山人宅にお世話になっていた造形家:イサム・ノグチも、日本の伝統造形に傾倒した作品づくりの時代と展覧会は結ぶ。
イサム・ノグチもそうだが、この時代から造形芸術にとどまらず、世に残る家具を作り出す。
丹下健三、柳宗理、坂倉準三・・・いよいよ大阪万博『太陽の塔』へ
川崎市岡本太郎美術館で同時開催される『青山時代の岡本太郎』のリーフレット |
さて、岡本太郎さんはこの後、アトリエを青山に移し、あの大阪万博『太陽の塔』へと突き進む・・・青山時代 1954-1970年。
1954年5月、東京・青山、現在の骨董通り近くにアトリエ(現:岡本太郎記念館)を構える。坂倉準三建築事務所によるアトリエ兼自宅。ここでは、丹下健三や柳宗理ら新進気鋭の建築家・デザイナーと総合芸術運動を精力的に進めていくことになる。
『青山時代』の展覧会は、4月21日から7月1日まで川崎市岡本太郎美術館へ場所を移して開催。
ここでは、冒頭でお会いした長大作さんの椅子も展示されているとお聞きした。
当時の建築やデザイン、そして岡本太郎さんの『家具』たちにも出会う展示会であろう。
なに不自由もない恵まれた家庭に生まれ、アカデミックな10代20代を送った岡本太郎さんが、帰国後それまでの滞欧生活とは全く正反対の軍隊・焼失を味わい、零からのスタートの世田谷時代。言葉では表現できない絶望と苦労を背負った岡本太郎さんのその後の活動にはその陰もかけらも微塵もない。ボクは、そこに岡本太郎さんという『人間の根っこ』を感じてならない。太郎さんが愛してやまなかった縄文の土器のように、骨太で温かく、強い根っこだ。
そして、あらためて岡本太郎さんが好きになった。
ああ、『青山時代の岡本太郎展』、今からワクワクしてたまらない。
その会場風景は、また別の機会にお伝えしたいと思いますので、お楽しみに!
■今回の関連リンク
→世田谷美術館
■会場:世田谷美術館
■会期:2006年3月24日~5月27日
※取材協力:世田谷美術館
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