インスリンの発見
 
1921~1922年のインスリン発見以前は小児発症の糖尿病は死の問題でした。残り数ヵ月から2年の命でしたから。インスリンを手にして初めて合併症を避けていかに生きるかという生の問題になったのです。インスリンは糖尿病者にとって新しいホルモンを入手したということではなく、命そのものの復活だったのです。

『インスリンの発見』を再読して


『インスリンの発見』(マイケル・ブリス著 堀田饒訳、朝日新聞社 1993)という素晴らしい本があります。これは歴史に残るインスリンの発見を、カナダのトロント大学歴史学教授のマイケル・ブリスが膨大な資料と生き証人達と面談を積み重ねて再現してくれたものです。インスリンはまさにこのトロント大学医学部で行われたのですから、未公開の資料に近づけるブリス教授の筆は、虚実ない交ぜられたインスリン発見のエピソードを見事に暴いてくれます。

原著の出版は1982年ですが、とても評価の高い本なのでシカゴ大学が1984年にペーパーバックスのリプリントを出版し、1996年にはオリジナルの出版社であるカナダのMcClelland&Stewartが306ページのペーパーバックスのリプリント版$19.99を出しています。日本語の名訳はまだネットで中古書が入手できますから、ぜひご一読を。糖尿病関係者でなくてもこのドラマは感動を呼ぶことでしょう。
特に糖尿病治療のモチベーションが下がり気味の人はこの本から大きな励みをもらえるはずです。

インスリン発見の物語はフレッド・バンティングが1920年10月31日の夜、医学雑誌で"すい臓結石症例と深い関連を持つ糖尿病へのランゲルハンス島の関与について"という記事を読んだことに始まります。バンティングは尿糖を減少させる内分泌物を分離させるためには、犬のすい管を縛ってタンパク質分解酵素であるトリプシンを産生する細胞を萎縮させて、強力な外分泌物(トリプシン)から内分泌物(ホルモン)を保護する必要があるとひらめいたのです。

バンティングの思いつきが彼を突き動かします。当時オンタリオ州ロンドンで整形外科クリニックを開業したばかりなのに、それを放り投げてトロント大学生理学部教授のマクラウドの研究室で動物実験をしたいと頼み込みます。
そこで実験助手としてチャールズ・ベストが加わり、マクラウド教授が加わり、のちにコリップや他の研究者達が加わった。実験は成功して活性のある抽出物を精製できることが分かった。
しかし、この方法では少量の抽出物しか取り出せないので、さらに実験が進められて普通の牛のすい臓から精製する方法が発見されます。最終的に人の臨床治療に使えるような毒性の少ない抽出物(インスリンのこと)を作ったのはコリップ博士でした。

さて、インスリンを発見したのは誰でしょうか?実はすい臓を縛ればインスリンが分離できると考えたバンティングの仮説は誤りでした。後年、イギリスのH・H・デイルが言ったように、インスリンは「誤った構想によって敷かれたコースから、これに交差する正しい道へと、つまづいたはずみに出てしまった結果」として生まれたのです。
特許申請の問題もからみ、研究チームは山のようなトラブルを抱えていたことが『インスリンの発見』の中で見事に描かれています。
1923年のノーベル賞、生理学・医学賞でインスリン発見の栄誉としてバンティングとマクラウドが選ばれたことでノーベル賞史に残る騒ぎになります。かねてから不仲のバンティングは共同発見者はベストだとして賞金の半分を分けると発表し、同じくマクラウドはコリップと半分ずつにすることにしたのです。

『インスリンの発見』の著者マイケル・ブリスはバンティングとベストの2人の若者だけではインスリンは発見できなかったと記述してます。彼らのしたことはインスリン発見の一部だったのです。
冒頭にインスリン発見の年を1921~1922年と書きましたが、これはある意味を込めています。
一般には"1921年のバンティングとベストによるインスリンの発見"という表現がありますが、1922年を加えることによってコリップのインスリンが人類史上初めて1型糖尿病の少年レナード・トンプスンの血糖を下げた「瞬間」がインスリン発見だという考え方を意図しているからです。

インスリン発見の場、トロント大学医学部の建物は新しくなりましたが、「1921~1922年、バンティング、ベスト、コリップ、マクラウドがインスリンを発見した」というプレートが掲げられているそうです。(つづく)
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