集団を強制力なしに導くプロセス
つまりリーダーシップは、権力行使のように強制力を使いません。人々に対する呼びかけ、提案、働きかけ……これらによって、人々の支持を集め、自発的に一定の方向に向かわせようとするものが、本当の意味でのリーダーシップです。
もちろん、時には権力行使がともなう場合もあります。しかしそれが前面に出るとリーダーシップとはいえません。人々の自発的行為をむしろ封じてしまうからです。リーダーシップはあくまで「指導」であって、それに人々が自発的に応じることが、リーダーシップの成否を分けるのです。
リーダーシップのようであっても、実は首相とか社長とか、地位を利用しないとなりたたないものは真のリーダーシップとはいえません。こういうものは「ヘッドシップ」といったりします。時には公的に何の地位もない人物がリーダーシップをふるって人々を動かすこともあります。これも単なる権力行使とリーダーシップの違いといえますね。
現代先進国の政治的リーダーシップ
リーダーシップの類型。 |
ただしこのリーダーシップはどうしても保守的になってしまいがちです。「守る」ということを前提にしているからです。現代の先進国では、国民は利益の不足を補うことよりも、充足を保っていくことに関心を持つようになるからです。
日本の年金問題にしても、年金の不足というよりは「今の年金をこれ以上減らさないでほしい」「若い時の生活レベルを維持できるような年金を支給してほしい」という「充足の維持」を、人々は政治家に求めているわけですね。
そのため現代先進国の政治家たちは、いかに人々の暮らし・利益を守るか、というリーダーシップを絶えず発揮していくことが求められます。
しかし、現代の先進国においても往々にしてカリスマ的なリーダーシップの発揮が期待されることがあります。社会の閉塞感が強まると、その期待は高まります。ただし、そうして生まれたリーダーも基本的には選挙で選ばれた人です。カリスマ性を発揮しながら、一方では保守的なリーダーシップも展開しなければ、選挙民の支持を失ってしまうことになります。
不安定期の政治的リーダーシップ
現代先進国のような安定した社会を持たない、不安定な社会の上にはどのようなリーダーシップが必要なのでしょうか。第1次世界大戦後の混乱の中、ドイツを支配することになったヒトラーのリーダーシップは、人々の欲求不満を「政治的な投機」によって解消しようとするものでした。侵略戦争を起こしたり、ユダヤ人をスケープゴート(いけにえ)にして迫害したり……このようなリーダーシップを「投機的リーダーシップ」といいます。
しかしこの種のリーダーシップは結局社会を根本的に変革しようとはしません。ヒトラーも、または戦前の日本のファシズム指導者たちも、基本的には政治的な労力を自らの体制維持につぎ込み、人々の欲求不満のはけ口を求めることに終始します。
しかしこのようなリーダーシップは、欲求不満を満たす手段を失ったり、あるいはエスカレートしすぎたときに、崩壊への道をたどります。
社会を根本的に変革しようとするのが「創造的リーダーシップ」です。革命家のリーダーシップであり、明治維新の指導者たちのリーダーシップでもありました。彼らは強力なイデオロギーで理論武装し、人々を導こうとします。
しかしこのリーダーシップも、いつかは社会の安定とともに「代表的リーダーシップ」に着地しなければなりません。独裁に陥りがちな創造的リーダーシップは、社会が安定し国民が利益の保守を訴えるようになると、その正統性を失っていくことになります。
※参考書籍・サイト
『【縮刷版】政治学事典』 猪口孝ら/編 2004 弘文堂
『[増補・新版]政治学への道案内』 高畠通敏 1991 三一書房