2ページ目 【1970年代までの自民党総裁選の様子】
3ページ目 【現代の総裁選のしくみができあがるまで】
ころころ変わった選挙方式
自民党本部。党大会は大きな別の場所で、両院議員総会は主にこの建物のなかで行われる。 |
しかし、地方票の割り振りもそのつど変わったり、1995年の総裁選(橋本龍太郎勝利)では党員1万票につき1票など、自民党への風当たりなどを考えながら、制度はいろいろと変わっています。
また、派閥、特に竹下派=経世会の力が強いときには、選挙そのものが行われないこともよくありました。竹下登を選出した1987年の総裁選では「中曽根裁定」により候補者が一本化され無投票当選。
また、1989年、宇野宗佑と海部俊樹を選んだ総裁選は、両院議員総会によって行われています。なかでも宇野総裁を選んだときは、他に立候補者がいたにも関わらず「無視」して、「起立多数」で決めてしまいました。
2000年、小渕首相が倒れたときは、有力者5人による「五人組談合」が行われ、森喜朗総裁が決まり、その後両院議員総会で形式的に決定する形がとられています。
しかし、このような派閥単位の総裁の決め方は、国民から強い批判を浴びることになります。
そのため、2001年からは、1回を除いて、党員たちによる地方票と国会議員票の合算か、臨時の時には国会議員票と都道府県連一律3票という現在の形でほぼ定着しています(1回、小泉首相の就任4ヶ月後に行われた「前総裁の任期切れのための総裁選」では、無投票当選で小泉首相の再選が決まっている)。
地方の反乱=総裁選での「街頭演説」
小泉純一郎という人物の登場から、自民党総裁選は大きく変わってきた。 |
そして誰よりも目立っていたのが小泉純一郎であり、たくさんの人々が彼の演説を食い入るように見ている様子が報じられると、各都道府県連は一斉に自主的な予備選を始め、小泉圧倒的支持という地方党員の声を永田町に轟かせました。こうして、小泉政権がスタートしたのです。
このときの自主的な予備選は、1位の候補者が県連の持ち票を総取りする形がほとんどでした。これではいかん、という声がどことなく上がり、2003年総裁選からは、都道府県連がドント式で票を配分する現在のルールができあがりました。
先のページでも述べたように、地方票は通常総裁選で300票、臨時総裁選で141票。2003年当選の小泉純一郎、2006年当選の安倍晋三、いずれも地方票獲得も1位となっています。
こうして地方票はいまや、普通の国民である一般党員と自民党をつなぐ大きな役割を果たすようになっています。この制度がなければ、いまごろ一般党員の自民党離れは加速していたことでしょう。
自民党政治の接着剤
自民党は派閥が多く、連合や対立の激しい巨大政党です。現に、今の民主党には、自民党からケンカ別れしてでてきた人たちも多くいるわけです。それでも、自民党総裁選は、国民や党員の関心を引き付けながら、自民党の求心力を維持する「接着剤」的な役割を果たしてきました。今後もそういう役割を担っていけるかどうかはこれからにかかっています。
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