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自民党総裁選のしくみと歴史(2ページ目)

自民党総裁選がスタートしました。自民党総裁選には2つの方式があるのって知ってますか? 党員の選挙権とは? むかしの総裁選は? いろいろ、ここでおさらいしましょう。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【総裁選挙についてのルールは2つある!】
2ページ目 【1970年代までの自民党総裁選の様子】
3ページ目 【現代の総裁選のしくみができあがるまで】

総裁選から生まれていった派閥

資金
熾烈を極めたかつての総裁選、資金集めのためにも派閥は必要だった。
自民党の総裁選は当初、国会議員と各都道府県連から2人ずつ選ばれた地方代議員が投票していました(1962年からは地方代議員は1人に)。

この時代、もっとも熾烈を極めた選挙が第2回総裁選でした。幹事長だった岸信介、通産相だった石橋湛山、総務会長だった石井光次郎が立候補。第1回投票では岸223票、石橋151票、石井131票。岸が1位になるものの、過半数をとれず決選投票へ。

その前に、石橋・石井の2位・3位連合が結成されていました。2位になった候補を決選投票では3位の候補が支持するという約束です。こうして、決選投票では石橋258票、岸251票。自民党史上もっとも僅差で、新総裁が誕生しました。

しかし、石橋は2カ月足らずで、病気のため辞職することになってしまいます。

このころから、派閥が「総裁候補を支援する単位」として生まれはじめました。総裁選のために生まれ、終われば消えていく派閥もありましたが、池田勇人の派閥である「宏池会」のように組織化され、現在の派閥のようになっていくものも現れはじめました。

田中角栄は、この派閥の持つ力をよくわかっていた一人です。彼は首相であった佐藤栄作が国務に専念しているあいだに、佐藤派に侵食、いつのまにか田中派である「木曜クラブ」を作り、総裁の座を射止めました。

話し合いでの総裁決定

密室
密室での「話し合い」……談合的な総裁決定はしばしば批判されてきた。
もっとも、1970年代までは「話し合い」による総裁決定という場面も何度か見られました。それは往々にして「緊急時」でした。

たとえば、池田首相がガンに倒れた1964年末には、党執行部が「話し合い」で後継総裁を選ぶことが決定されました。もっとも、実際には池田が党内NO.2の実力者、佐藤栄作を「指名」、それを執行部の決定という形で発表、その後の臨時党大会で正式決定されています。

それから10年後の1974年、田中首相が「金脈疑惑」で辞職したときは、「長老」椎名悦三郎副総裁の「裁定」という形で、三木武夫新総裁が決定しました。なお、正式決定は党大会ではなく、はじめて「党大会に代わる両院議員総会」で行われています。

三木首相が総選挙惨敗で退陣したあとも話し合いでした。これは、福田赳夫と大平正芳の密約によって、後継は福田とほぼ決まっていました。こうしてここでも両院議員総会で、福田が後継総裁に決定しています。

1980年、大平首相死去にともなうときも、後継総裁は派閥間の話し合いのなか、最後は西村英一副総裁による裁定の形で、鈴木善幸が両院議員総会で決定しています。

「予備選」の導入

しかし、自民党が退潮ムードになってきた1970年代、やはり一般党員の声も聞くべきだという風潮が強まり、総裁選の前に一般党員による「予備選」が行われることになりました。党員・党友の予備選により選ばれた上位2名(のちに上位3名)が本選に進むというものです。

はじめて予備選が行われた1978年、現職の福田首相は「1位と2位が100点差つけば、2位以下は本選を辞退すべき」といって戦いました。結果は、その福田が大平に100点差つけられる結果に。福田辞退で本選はなくなり、大平が後継総裁に選出されました。

1982年の総裁選では、予備選で中曽根康弘が圧勝。結果、他の候補はすべて本選を辞退し、中曽根後継が決まっています。

1980年代末から現在までの総裁選の様子は、次のページで見ていきます。
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