スコットランドの政治が揺れています。スコットランド・ナショナリズムが静かに高まり、スコットランド自治議会選挙では「独立派」のスコットランド人民党(SNP)が勝利しました。今回はスコットランド政治の基礎知識をお話します。
1ページ目 【スコットランド王がイングランド王を兼ね、合同が始める】
2ページ目 【イングランド議会主導で行われた「連合王国」の成立】
3ページ目 【1999年に復活したスコットランド議会、独立派政権誕生】
【スコットランド王がイングランド王を兼ね、合同が始める】
「スコットランドにエリザベス女王は1人しかいない」
イングランド・キタアイルランドと「連合王国」の一部を構成するスコットランド。 |
今でも、スコットランドはイングランドとの「連合をしている国」だと考える人はたくさんいます。スコットランドとイングランドが別々にFIFA(国際サッカー連盟)に加盟し、ナショナルチームもリーグも別々、ということは中村俊介選手のスコットランドリーグでの活躍で知られるところです。
スコットランドの人たちに「エリザベス1世」のことを聞いてみたら、われわれの期待している答えとは違う答えが返ってくることも多いといいます。エリザベス1世は15世紀末から16世紀にかけてイギリスの絶対王政を確立した女王、として知られていますが、スコットランドの人たちのなかには、
「あれは『イングランドのエリザベス』だ。スコットランドに君臨したエリザベスという女王は、今の女王(すなわちエリザベス2世)しかいない。彼女が『エリザベス1世』だ」
と考えている人が多いというのです。スコットランドの「国民意識」を感じることのできるエピソードです。スコットランドを象徴するケルト風の民族文化(バグパイプや、キルト・タータンといったスコットランドの衣装など)をしっかり守っているところにも、彼らの自負心をみてとることができます。
スコットランドとイングランドの抗争
中世のあいだ、スコットランドとイングランドは激しく戦っていました。スコットランドはイングランドに臣従したり、あるいは「イングランドの敵」フランスと同盟して逆にイングランドに占領されたりもしました。14世紀始め、ロバート1世が登場し形成を逆転、スコットランドの独立を確立しました。その後イングランドとフランスのあいだで「百年戦争」が、ついでイングランドの内戦「ばら戦争」が相次いで始まったこともあり、スコットランドの独立は保たれました。
16世紀にはスコットランドでも宗教改革の嵐が吹き荒れ、プロテスタントに基づく「長老派(プレスビテリアン)」の教会が成立、貴族はカトリックとプロテスタントに分かれて対立します。
フランス生まれでカトリック教徒の女王メアリはプロテスタント派と激しく対立、数々の陰謀事件の後に彼女は追放され(後に逃亡先のイングランドで処刑)、スコットランドでのプロテスタント化が確立します。
スコットランド王がイングランド王を兼ねる
17世紀はじめ、スコットランド王ジェームズがイングランド王も兼ねることになった。青数字はスコットランド王の、赤数字はイングランド王の順番。 |
即位したメアリの息子ジェームズ6世は、1603年にイングランド女王のエリザベス1世が死去すると、親戚ということもあり、イングランド王を兼ねることになります(イングランド王としてはジェームズ1世)。
中世から近世にかけてのヨーロッパでは、しばしばあった話です。現在でも、イギリス国王はカナダやオーストラリア、ニュージーランドの国王を兼ねている、というようなことはあります。
というわけで、スコットランドの独立は維持されたまま、イングランドとスコットランドは1人の国王によって統治されることになったのです。
ジェームズはイングランド王になると、すぐさまイングランドに赴き、そこで政治を行います。貴族の力が強かったスコットランドを離れ、先の女王エリザベス1世が確立したイングランドの絶対王政は、彼にとって心地よいものでした。彼はそのままとどまり、ほとんどスコットランドに帰ることはありませんでした。
こうして、徐々にスコットランドはイングランドの従属的な立場に立たされて行きます。こうしてスコットランドの「イギリス化」が進んでいくのです。
次ページでは、スコットランドがイングランドに「吸収」されてしまうお話を中心にしていきましょう。