2ページ目 【タイ政治の歴史~90年代に訪れたタイ政治の転換点】
3ページ目 【タイ政治の歴史~2006年クーデターの背景とタイ政治の特徴】
【タイ政治の歴史~90年代に訪れたタイ政治の転換点】
サリット体制と国王権威の高揚
首都バンコク。(photo(c)esupply/版権フリー写真素材集) |
こうして一時衰退していた考え方「民族・仏教・国王」への忠誠という原理が復活し、以後国王の権威は再び上昇していくことになります。これが、今日のタイ政治にも大きな影響を与えているといわれています。
この体制のもと、タイはサリット政権の多岐にわたる開発政策によって、近代化への道を歩んでいくことになります。
学生革命、血の水曜日事件
1963年にサリットが死去するとタノームが政権を継承しましたが、近代化に伴って学生による民主運動がさかんになり、軍と衝突を起こすようになります。学生運動が激化し流血の惨事が起きた1973年、体制側も分裂し、学生革命が一応の成果を見せました。このとき国王はみずから首相を指名します。学生革命という民主運動と、高まっていた国王の権威が融合したまさに瞬間でした。
1975年総選挙が行われ、文民政権のもと、社会主義政党が大きく躍進。これにつれて政権も左傾化を進めるなかで、次第に国民の間で伝統体制への批判と、それに反発する人々との間に亀裂が入り始めます。
こうしたなか、軍は1976年クーデターを決行します。多くの犠牲者を出したため、「血の水曜日事件」ともいわれます。陸海空の三軍と警察の首脳が国政改革評議会を設置、実権は再び軍に戻りました。
しかし、ここで政権を託された元最高裁判事・ターニンの極端な反共主義政策も評判が悪く、国政改革評議会は再度1977年クーデターを決行、政権をやや穏健なものにします。
ブレーム政権と民政移管の失敗
1980年から政権を担当するようになったブレーム陸軍司令官は、国民の亀裂を押さえるため、さまざまな階層の調和を図り「調整型政治」とよばれる手法で政権運営を行います。このようにして開発独裁一辺倒の政治から脱却を目指したブレーム政権は、軍事政権ながら、まったくクーデターによらない手法で長期政権を維持することに成功します。また、経済の活況も顕著になってきました。
しかし、この体制は「半分民主主義」、つまり国王と軍の協力を前提としたものだったことには変わりありませんでした。文民政権を希望する声は次第に高まり、ブレームは1988年首相を辞任します。
同年の総選挙でチャーチャーイ首相がタイ国民党を中心とする連立内閣を樹立、再び議院内閣制に基づく文民政権が誕生します。
しかし、この政権は経済の高揚のなかで次第に汚職・腐敗が目につくようになります。これをとらえて軍は1991年クーデターを決行、アナン暫定政権を経て翌1992年、スチンダー陸軍司令官が首相に就任しました。
5月流血事件と民政移管の再実現
伝統と近代化の狭間で……(photo(c)esupply/版権フリー写真素材集) |
ここでプミポン国王はスチンダーと野党指導者チャムロンを呼んで和解するよう指示します。これによりスチンダーは退陣しますが、このときの模様、特に実力者たちがひざまずいて国王の言葉を聞く姿は世界中で放映され、タイ政治の国王の存在力がまざまざとみせつけられることになります。
スチンダ-政権後、暫定首相は「国王代理人」とされたブレーム元首相によってアナン前首相と決められ、総選挙。中道的な民主党を中心とするチュワン連立政権が発足します。こうして再び民政移管が実現しました。
この民政は政権を変えても長く続くことになります。この間に民主化が進行し、1997年には民主的な憲法が制定されました。それまで任命制だった議会上院は下院と同じく公選制となるなどし、民主政治は定着するかに見えました。軍の勢力低下もこの時期いわれていたことです。
タクシン政権の誕生
しかし文民政権は多くの政党からなる連立政権で、基盤は強くありませんでした。しかし、2001年総選挙でタクシン率いるタイ愛国党が過半数に近い勝利をあげると(のちに連立与党を吸収して単独過半数に)、政権の座についたタクシンはそれまでの文民政権にはない強固な基盤の上に立って、経済改革を推進することになりました。
2005年総選挙では圧倒的な議席数を得て(500議席中377議席)、タクシン政権の基盤はさらに固まるかに見えました。
ただ、彼のトップダウン式な強権リーダーシップの発動への反発や、南部の治安悪化、さらに彼自身の汚職疑惑などによって、次第に支持率は低下していました。
★次ページでは、そんななかで起こった2006年クーデターまでの流れを説明していきたいと思います。