1ページ目 【南スラブ民族を分断した3つの宗教と2つの帝国】
2ページ目 【ユーゴスラビアの混乱と再編:チトーからミロシェビッチへ】
3ページ目 【コソボ紛争とミロシェビッチ失脚、ユーゴスラビア解消】

【ユーゴスラビアの混乱と再編:チトーからミロシェビッチへ】

チトーの登場

これに猛然と反抗したのがチトー率いる共産パルチザン部隊でした。彼らとドイツ軍の戦いは激烈を極め、数え切れない悲劇を生みながら、結果的にパルチザンに勝利をもたらします。

ユーゴスラビアを解放したパルチザンとチトーは、当然戦後のユーゴスラビアの支配権を握ることになりました。もともとクロアチア系だったチトーですが、「救国の英雄」としての人気は絶大で、チトーの支配に大きな混乱は生じませんでした。

そしてチトーは、連邦を構成する共和国それぞれを尊重しながら、経済政策をある程度成功させ、そして社会主義国家ながらソ連と決別して「非同盟諸国」の中心となり、国民の自尊心を満足させました。

こうして、チトー政権は複雑なモザイク国家・ユーゴスラビアを束ねていったのですが、1980年、チトーが死ぬと、この結束は揺らいでいくことになります。「ユーゴはチトーの国だった」といわれるように、チトーを失ったユーゴスラビアは大きく動揺していくことになるのです。

クロアチアなどの独立とユーゴスラビアの再編

新ユーゴ
6つの共和国のうち4つが離脱したため、ユーゴは再編を余儀なくされた。赤色のところが旧ユーゴの範囲、緑色のところが新ユーゴの範囲
チトーなきあと大統領は各共和国の輪番制となり、結束が弱まっていきます。

そんななか80年代末、セルビアではミロチェビッチ政権が誕生、セルビア民族主義的傾向を強めてスロベニアやクロアチアなどとの対立を深めます。そして89年~90年に巻き起こった東欧の社会主義政権崩壊が、ユーゴスラビアにも波及、セルビア・モンテネグロ以外の共和国は連邦離脱=独立に動きます。

まず、スロベニア・クロアチア・マケドニアが連邦からの離脱に踏み切ろうとします。スロベニアは少しの戦闘で、マケドニアは無戦闘で独立します。

しかし、クロアチアには10%ほどのセルビア系住民がいたため、ミロシェビッチ政権下のセルビアが大きな力を持つ連邦軍が出動、内戦に発展します。91年末に一応の終結をしますが、大きな被害が出ました。

92年、セルビアとモンテネグロは「新ユーゴスラビア連邦」を結成、ミロシェビッチを事実上の指導者とし(1997年からは正式に連邦大統領就任)、ユーゴスラビアは再編されます。

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ボスニア内戦とセルビアへのマイナス・イメージ定着

ボスニア=ヘルチェゴビナ
激しい内戦が行われたボスニア=ヘルチェゴビナは、ムスリム・クロアチア系の「ボスニア=ヘルチェゴビナ連邦(緑の部分)」とセルビア系の「スルプスカ共和国(黄色の部分)」に分割された
一方、ムスリム系44%、セルビア系33%、クロアチア系17%という複雑な民族構成のボスニア=ヘルチェゴビナは独立を目指すも、民族間の三つどもえの内戦が勃発します。新ユーゴスラビア(セルビア)、クロアチアもこれに介入し、泥沼の戦いに陥ってしまいます。

このころから、セルビア人勢力が「民族浄化」などと称して虐殺、集団レイプなどを起こしているという報道が国際世論をあおり(特にセルビア人勢力がムスリム人数千人を殺害したとされる「スレブレニツァの虐殺」は欧米で大きく報道されます)、アメリカを中心とするNATOは「人道的介入」として空爆を実行します。

セルビア=悪、的なイメージが国際的に植え付けられていったのは、このころからでした。ただ、セルビア人側の被害も、甚大であったといわれていて、ミロシェビッチが起訴されたオランダ・ハーグの国際法廷には、クロアチア軍人も戦争犯罪の容疑で起訴されています。

結局、95年のデイトン合意でボスニア・ヘルチェゴビナは主にムスリム・クロアチア系からなる「ボスニア・ヘルチェゴビナ連邦」と、主にセルビア人からなる「スルプスカ共和国」に二分されながら、統一国家形式を守るということが決まり、内戦は終息しました。

マケドニアとギリシアの対立

スロベニアとマケドニアは比較的穏便に独立しましたが、マケドニアは隣国ギリシアと対立しました。

マケドニアは19世紀の終わりから、セルビア・ギリシア・ブルガリアが狙っていた地域でもあり、またギリシアにもまた「マケドニア州」があり、「マケドニア=ギリシアの一部」という概念がギリシアの側にあったからです。

結局、マケドニアは正式国名を「マケドニア・旧ユーゴスラビア共和国」とすることでギリシアと和解、93年に国連加盟を果たします。

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セルビア経済の不調とミロシェビッチ

デイトン合意以降、バルカンの紛争はいったん収まり、平和が訪れるかに見えました。

しかし、セルビア経済の不調(内戦から逃れてきたセルビア人難民の存在が大きく影響したともいわれます)から、野党が勢力を伸ばしはじめます。

これに危機感を抱いたミロシェビッチは、一転、セルビアからの独立運動が絶えなかったコソボへの軍事介入を行います。戦争とナショナリズムで国民の不平から目をそらす、という古典的な独裁者の政策が、またも大きな悲劇を生むことになります。

コソボは誰のものか?

コソボは第2次大戦で一時アルバニア領とされたため、アルバニア系の住民が多数を占めるようになっていました。

そのため戦後、セルビア共和国内の自治区とされてきましたが、チトーの死後まもなく、アルバニア系住民らによるセルビアからの分離独立の主張が高まっていました。

「コソボはアルバニア系住民のもの」とよくいわれますが、セルビア人の考えは違います。「コソボはセルビアのもの」。「セルビアの魂」とまでいう人もいます。

中世末期、確かにコソボはセルビアでした。そして近世になって、トルコがセルビア侵略を始め、その帰趨(きすう)を決めた運命的な地、そここそが、激しい戦闘が行われたとセルビアで現在まで語り継がれるコソボでした。

そういう意味で、コソボは、セルビアの歴史にとって欠かすことのできない重要な土地でした。それをさらに強調し、守ろうと訴えたのがミロシェビッチでした。

しかしもちろん、コソボはアルバニア系住民が多数派であるということも事実です。コソボは、誰のものなのか。……その議論が決着しないうちに、ミロシェビッチはセルビア=ナショナリズム高揚のため、コソボに軍を進めていったのでした。

こうして、「コソボ紛争」が始まります。