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「ユーゴスラビア」政治の歴史

80年代後半から2000年までユーゴを支配したミロシェビッチ元大統領が拘置所の中で謎めいた死をとげました。もはや消滅したユーゴスラビア。この国の歴史を、改めてみていきましょう。

執筆者:辻 雅之

(2006.01.12)

旧ユーゴスラビアの元大統領・ミロシェビッチ氏がハーグの戦犯法廷拘置所で突然の死を遂げたのを見て、改めて「ユーゴとはなんだったのか」と考える人も多いでしょう。ユーゴスラビア政治史の基礎知識です。

1ページ目 【南スラブ民族を分断した3つの宗教と2つの帝国】
2ページ目 【ユーゴスラビアの混乱と再編:チトーからミロシェビッチへ】
3ページ目 【コソボ紛争とミロシェビッチ失脚、ユーゴスラビア解消】

【南スラブ民族を分断した3つの宗教と2つの帝国】

「南スラブ民族の結合」をめざしたユーゴスラビア

ユーゴスラビア
6つの共和国、3つの宗教、2つの自治州からなる複雑な「モザイク国家」だったユーゴスラビア
1992年までの旧ユーゴスラビアは、6つの共和国からなる連邦国家でした。構成していたのはスロベニア・クロアチア・ボスニア=ヘルチェゴビナ・セルビア・モンテネグロ・マケドニアです。

これらの国々の多数派民族はともに「南スラブ民族」でした。ユーゴスラビアは、この南スラブ結合を目指して生まれた国家でした。

しかし、南スラブ民族が住むバルカン半島は、ローマ帝国の崩壊から近代まで激動の歴史をたどってきました。そのなかでスロベニア・クロアチアではカトリックが、セルビア・モンテネグロ・マケドニアではギリシア正教(東方正教)が主要な宗教となり、さらにボスニア=ヘルチェゴビナの国内では後にイスラム教徒も生まれ、独特かつ複雑な「モザイク」が生まれていったのです。

オーストリアとオスマン‐トルコ帝国に分断された近世バルカン

スロベニア・クロアチアは西ヨーロッパに近く、中世にはフランク王国の侵入も受けたこともあり、カトリックが主要宗教になっていきました。

一方、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)衰退後、マケドニアなどを含む南バルカン一体を支配する大帝国を作り上げたセルビアでは、人々はギリシア正教(東方正教)を維持していました。

また、北方のハンガリーの影響をつけつつも王国を作っていたボスニア地方では、カトリックでもギリシア正教(東方正教)でもなく、異端視されていたカタリ派(ボゴミール派)が存在し、広がっていました。

さて、近世になって、イスラム勢力のオスマン‐トルコ帝国が小アジアから北上してきます。ビザンツを滅ぼしたトルコは次々に南バルカンを征服していき、コソボの戦いでセルビアを破って征服、さらにはハンガリーの勢力下にあったボスニア=ヘルチェゴビナも領域に加えます。

一方、一番西方のスロベニアは中世末期に中欧の雄となったオーストリアの支配下にはいり、クロアチアは、やがてオーストリアが実質支配するハンガリーの支配下に入ったあと、ハンガリー自身がオーストリアとトルコに2分され、クロアチアはオーストリアの支配下に入ります。

こうして、近世から近代末期まで、バルカンはオーストリアとトルコという2大帝国に分断、支配されることになります。もっとも、モンテネグロは、地勢的に守りやすかったのか、トルコの支配からは逃れ、自立していました。

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バルカンに3つの宗教がならびたった事情

16世紀中頃のバルカン勢力図
16世紀中頃のバルカン半島の勢力図。赤点線は旧ユーゴの国境、黒点線は14世紀中頃のセルビア帝国の勢力範囲
さて、トルコは他の長続きした世界帝国がそうだったように、比較的異民族に寛大な政策をとったため、領域内でのギリシア正教(東方正教)は維持されていました。セルビア人たちは当然のようにギリシア正教(東方正教)を守り続けます。

一方、ボスニア=ヘルチェゴビナでは、カタリ派の人々がイスラム教に改宗していきました。こうして、スラブ民族ながらイスラム教である「ムスリム人」なる民族が誕生し、トルコと結びつきながら他のスラブ系民族との対立の火種を作っていくことになります。

また、スラブ民族ではないアルバニア人の多くもイスラム化されたました。

こうして、バルカン半島にはオーストリア領のカトリック、トルコ領のギリシア正教(東方正教)とイスラム教、こういう3つの宗教が並び立つことになるのです。

第1次世界大戦の「火薬庫」となったバルカン

バルカン勢力図
第1次世界大戦直前のバルカン半島勢力図。セルビアとオーストリアが、ボスニア=ヘルチェゴビナをめぐって対立、これが第1次大戦の直接のきっかけをつくった
近世末期、トルコの勢力が衰えていくと、19世紀前半にセルビアは自立し、マケドニアを併合するなど勢力を増していきます。そして、同じスラブ民族・ギリシア正教(東方正教)国であるロシアを後ろ楯とした「パン=スラブ主義」(スラブによるバルカン)が高揚していきます。

しかし、やはりスラブ系民族を自国に抱えるオーストリアにとってそれは都合のいいものではありませんでした。そこでオーストリアは19世紀の終わり、ボスニア=ヘルチェゴビナを事実上併合、ドイツとともに「パン=ゲルマン主義」(ゲルマン民族によるバルカン)政策を推進していきます。

ボスニア=ヘルチェゴビナにはセルビア人も多数住んでいますから、ボスニア問題はオーストリア・セルビアの大きな対立点になっていきます。それが沸点に達したのが1914年、セルビア人青年によるオーストリア帝位継承者夫妻暗殺事件であり、ここで破裂した「火薬庫」は、ドイツ・ロシア、そしてイギリス・フランスも巻き込む大1次世界大戦の勃発を生むことになったのです。

ユーゴスラビアの成立

戦後、敗戦したオーストリアとトルコの勢力はバルカンから駆逐されましたが、ではここにどんな国家ができたのか? それは、南スラブ系民族の各民族の国々ではなく、それらを統合した「ユーゴスラビア王国」でした。

しかし、この王国の政情は不安定でした。常に中央集権主義=セルビア主義と連邦主義=各地域の自治重視主義が対立し、いつでも壊れていいようなもろさをひめた状態でした。

それでも世界経済が好調だった1920年代はなんとか乗り切りましたが、世界恐慌の広がる1930年代政情は不安定に陥り、国王アレクサンドルはクロアチア分離主義者によってパリで暗殺されてしまいます。

そして第2次世界大戦中の1941年、中立を保っていたユーゴスラビアにドイツが侵入、またたくまに占領を終えます。ドイツはイタリアと結んでユーゴスラビアを解体、クロアチアの独立を認める一方、セルビアは傀儡(かいらい)政権を作って事実上支配下におきます。

また、イタリアはスロベニア・モンテネグロを併合するとともに、アルバニアの領土を北のコソボ地域にまで拡大させます。コソボ紛争の火種がここに生まれたのです。

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