2ページ目 【岸の理念と構想、しかしその実現への障害となる、重いレッテル】
3ページ目 【「保守反動」に対する大衆の疑念を読み切れなかった岸の誤算】
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【岸の理念と構想、しかしその実現への障害となる、重いレッテル】
石橋派の「空手形作戦」と「2・3位連合」
この総裁公選では、「実弾」、つまり現金が飛び交っていたといいます。3億円を超える現金がこの公選で使われたといわれます。1956年当時の3億円ですから、いまではどのくらいになるのでしょう。後年、リベラリストであるはずの石橋が「公選はやらないほうがいい」と発言しています。今から考えるとしっかり選挙やった方がいいじゃないか、と思いますが、当時は選挙にすると汚いお金がたくさん飛び交うので、いやだ、ということだったのでしょう。
いずれにせよ、資金面では圧倒的に岸有利。ついで石橋、石井の順です。石橋サイドは、資金がないならと、「空手形」を切って対抗します。「空手形」とは、「もし協力してくれて選挙に勝ったら、ポストを提供する」というものです。
この空手形作戦は、最終的に成功しました。これによって、大野派が石橋に落ちたからです。大野は、石橋派から必ずしも明言を得たわけではありませんが、幹事長ポストがくるものと思ったわけです。
そして、石橋と石井の2・3位連合が決まり、どちらかが上位になった方に、どちらかが決選投票で支持する、という微妙な駆け引きが行われたわけです。
「哲人宰相」石橋の勝利と早すぎる退陣
こうしてむかえた国会議員による総裁公選。第1回投票は岸223票、石橋151票、石井137票。岸1位ながらも過半数にとどかず、事前の「石橋・石井協定」により、決選投票は石橋258票、岸251票。この大逆転により、2代目総裁は石橋に決まりました。戦前、政府の植民地政策や金融政策を徹底批判し、ファシズムに抵抗、戦後復興の立役者が首相指名をうけ、石橋政権が発足したのでした。
この「哲人宰相」石橋に、期待も大きかったようです。石橋は党内基盤確立のため、衆院解散の準備を進めますが、年末でもあり、予算編成にも追われます。財政通の石橋がこの作業に手を抜くことは自身が許せなかったでしょう。
この激務が、結局命取りになります。1月末肺炎で入院。病状は悪化し、政治生命の危機さえ伺われるようになります。
外相になった岸が臨時首相代行として国会にあたりますが、石橋は一向に好転しない病状に観念して辞職の決意を固めます。結局、石橋内閣は2ヶ月あまりで退陣。
結局、臨時党大会は開かれたものの、ほぼすべての議員の賛成により、岸が3代目総裁に就任、岸内閣が発足することになります。
岸がなぜ横滑り的に首相になれたのか、ですが、まずは前回公選の結果の影響が大きかったこと、第2に石橋が党内融和のために対決した岸を外相に据え(当時は外相=副首相格と考えられた)ていたため、臨時首相代行となり、それが影響したことが考えられます。
アメリカ協調とナショナリズム回復は両立すると考えた岸
さて、岸は最初にもいったとおり、外交路線としてアメリカ協調路線、そして内政路線として「逆コース」とよばれてしまう復古的な政府権限の強化をはかろうとします。高度なプラグマティスト(実践主義者)でもあったある岸は、「アメリカ協調を深める」ことと、「ナショナリズムの強化」は同時に進行できる、と考えていました。
つまり、米ソ冷戦体制のなか、日本がアメリカ陣営に立つことを明確にしながら、同時にそれを口実に再軍備強化を進め、日本の発言権を強める。これが岸の構想でした。
そういった意味では、「不平等」な1951年締結の安保条約は改正が必要でした。51年安保では、アメリカ軍の駐留だけが規定され、アメリカが日本を守ってくれるのかどうかがわからないわけです。
こうして、「日米共同防衛の明文化」のため、岸は日米安保の改定に着手することになるのでした。
岸に貼られていた「A級戦犯容疑者」という重いレッテル
復古的な内政路線をすすめるに至っては、岸にとっては不都合なことがありました。つまり「A級戦犯容疑者」というレッテルです。彼は連合国によりA級戦犯容疑者として逮捕され、不起訴となったものの、獄中生活を2年ほど送っています。理由は、満州の経済経営を進め、東条内閣の商工大臣として戦時経済の責任者になっていったからです。
なぜ、岸が不起訴になったのかはわからないところも多いのですが、岸が東条内閣の倒閣運動の中心人物になっていたこと、翼賛議員会の反主流派として「岸新党(護国同志会)」を作ったこと、という事実を参考までにあげておきます。
とにかく、この不名誉なレッテルはもはや剥がしようがないわけで、岸はとにかく衆院解散までの「岸前期政権」までは低姿勢で臨んで、社会党と話し合いの上で解散に踏み切ります(1958年、「話し合い解散」)。
結果は自民党287議席、社会党166議席。社会党は戦後最大の議席を獲得しますが、内部は敗色一色でした。1950年代に入ってからの日本経済の発展、労働者の増大は社会党の勢力拡大、政権獲得をもたらすと考えられていただけに、わずかながらの議席増は「敗北」と社会党内ではとられられました。
一方、岸は安定多数を維持、事実上国民が「A級戦犯容疑者」岸を信任したと考えます。こうして、岸の「後期政権」の混乱の序曲が奏でられ始めたのでした。
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