(2005.10.07)

自民党の歴史、第1回目は自民党が生まれるまでの歴史を、終戦後から初代総裁決定まで見ていきます。ワンマン宰相吉田茂と、生粋の政党政治家を自認する鳩山一郎。この2人を軸にして、激しい抗争の末、自民党は誕生したのでした。

1ページ目 【「公職追放」からすべては始まった……吉田・鳩山抗争の開始】
2ページ目 【追い詰められてもワンマン発揮した吉田……しかしそれがあだに】
3ページ目 【混迷と迷走……そして意外な形で決着した「自由民主党・初代総裁」】

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【「公職追放」からすべては始まった……吉田・鳩山抗争の開始】

日本自由党の結党と鳩山一郎の公職追放

第2次大戦の敗戦後、政党再建が本格化しましたが、わりと早くその態勢が整ったのが、日本自由党と日本社会党です。

そのうち「保守本流」を目指して結党された日本自由党は、鳩山一郎や芦田均といった「非翼賛議員」(大政翼賛会に加わらず、推薦も受けなかった議員)を中心として、戦前の二大政党の1つ、政友会のメンバーらによって結成されました。

鳩山を総裁とした自由党は、1946年の衆議院総選挙で140議席と過半数には遠く及ばないながらも、第1党となり、まだ日本国憲法が制定されていない中、イギリス的なルールに従って、第一党党首である鳩山を首相とする連立政権が組まれようとしていました。

ところが鳩山が戦前からの政党人であること、政党内閣の文部大臣として滝川事件(京都帝国大学教授の滝川幸辰が「共産主義的」として免職された学問弾圧事件)に関与した経緯もあり(ソ連陰謀説も根強い)、鳩山は総理の座を目前にしながら、GHQによって「公職追放」されてしまいます。

結局、鳩山は戦前から英米強調派の外交官として知られていた吉田茂に政権を譲ることになります。

混乱の中、政権禅譲を急ぐ自由党に対し、吉田は「金作りをしない、閣僚の選定に口出しされない、いやになったらいつでも投げ出す」となんともはや自分勝手な(?!)条件で、総理総裁を引き受けることになりました。

このとき、「鳩山が追放解除になったらいつでも総裁を譲る」という条件も交わされていたといいます。このことのあるなしが、のちのち尾を引くことになるのでした。

吉田ワンマン政権と鳩山一郎の復帰~抗争へ

さて、やがて、おそらく当初吉田さえも想像もしていなかったであろう、吉田のワンマン政権時代が訪れ、彼のもとで連合国との講和=独立の回復が果たされました。

吉田のワンマン政権運営は、2つのものに支えられていました。1つは大物外交官としての力量で築いた占領軍アメリカとのパイプ。もう1つは吉田が大量抜擢した、池田勇人佐藤栄作といった官僚出身の党員たちでした(彼らが俗に言う「吉田学校の生徒たち」です)。

しかし、独立の回復は、まず1つの支え、アメリカとのパイプが占領終了によって細くなってしまうことを意味していました。

また同時に、占領終了により、公職追放などによって政界から締め出されていた鳩山一郎、岸信介重光葵(ただし前記2人は戦犯として)、石橋湛山(たんざん)らといった、吉田と対等の影響力を持つ大物政治家たちが政界に復帰することも意味していました。

彼らが復帰して議席を獲得し、自由党に大量入党すれば、もともと政党政治には疎く、選挙対策などもさほどうまくない吉田の政権はすぐに終わってしまうだろう、というのが、当時の政界の考えでした。

しかし、その鳩山が追放解除直前、脳溢血で倒れてしまいます。吉田は、これを好機に思ったのか、そのあたりは不明な点も多いですが、とにかく「鳩山が復帰したら総裁を譲る」という「約束」を事実上、反故にしてしまいます。

ここに、吉田と鳩山の激しい権力抗争の火ぶたが、切って落とされたのでした。

「抜き打ち解散」と「民同」結成

追放解除組の議席復帰前から、吉田と鳩山の抗争は激化しはじめます。追放されず議席を守っていた鳩山系議員たちが人事をめぐって吉田系とあつれきをおこすようになるのです。

1952年7月、自由党の議員総会は幹事長ポストをめぐって大混乱し流会。吉田は側近の福永健司を1年生議員でありながら幹事長に推しますが、反対派が激しく抵抗。吉田が窓に押し付けられて身動きできないほどの事態に陥ります。

結局、大野伴睦ら鳩山系ベテラン議員らの働きかけで福永は幹事長を辞退、ベテラン議員の林譲治が幹事長に就任。吉田系はここに初めて党人事の主導権を鳩山不在の鳩山系に奪われてしまうことになります。

巻き返しを図る吉田は、それまで拒否していた衆院解散(鳩山系元議員の復帰のため鳩山系などは要求していたが、吉田は断固拒否だった)を、大野ら有力政治家にも告げずいきなり断行します(いわゆる「抜き打ち解散」)。

総選挙で解除組は自由党に復党し選挙活動を行いますが(重光は芦田均元首相らとともに改進党結成にまわる)、選挙活動で反吉田演説をしているとして吉田は河野一郎(現衆院議長、河野洋平氏の父)、石橋湛山という大物2名を除名。しかし鳩山系は鳩山自身含めて大きく勢力を回復しました。

続く首相指名はなんとか吉田指名で党内一本化が実現しましたが、直後に鳩山系のうち強硬派が党内に「民主化同盟(民同)」を結成。いよいよ抗争は激化していくことになります。

◎保守本流は吉田系官僚軍団か鳩山系古参政党政治家か……


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